先日手に入れたスペシャルなオリーブオイルが、我が家で大活躍している!
パンにはモチロン、パスタは、実はあまり我が家は冬には食べないのだが(土地柄、煮込みうどんとか、鍋焼きうどんとか、うどんすきとか・・・同じ麺でもうどんの回数が増える!!たっぷりのショウガを効かせたメニューで・・・)、この1週間ちょっとの間、パスタが2~3日に一度顔を覗かせる有様である!
もちろん、最初はペペロンチーノで攻める!
香りがとてもいいので、子供達からは好評の嵐です!
出来るだけ、オリーブオイルの香りが活きる様に、調理も改めて考えてしまうのです。
いつもの料理でも、全部オリーブオイル!
例えば、ハッシュドポテトにも一回し!目玉焼きにも一回し・・・・といった具合に、薬味のように使うと、ビックリするくらい香りが立って、食欲をそそるのだ!
じゃがバターにもバター抜きで、じゃがオリーブオイル・・・・
こんなに贅沢な楽しみ方があっていいのか!と、ご満悦の私。
多少、アクシデントがあっても、美味しい物を食べると、ご機嫌はよくなってしまうというものだ!
いつものサラダが高級レストラン並の味になり、夕飯がディナーになる。
肉じゃがを、塩と胡椒だけにして、出来上がりにさらっとオイルを回しかけると、違った味わいの、肉じゃがではない、煮込み料理になる。なんて素敵!
同じ材料を使って、違う味わいが楽しめるという、さすが、食文化深いイタリア、と思うのだ。
醤油が奇跡の調味料、と世界で名高いのと同じくらい、オリーブオイルもまた、奇跡、と思う。
こうやって、香辛料のように使い、炒め油、揚げ油としても使え、更には、石けんにも出来るし、乳液のように保湿も出来る。
地球は、いつも計り知れない恩恵をそこここに降り注いでいるのだ、と、またありがたく思う。
駄菓子屋のんちゃん(2010.2.10)
私のサブ机の引き出しの一つは、お菓子で埋まっている。
たまに、義母や相方が、こっそり小銭を置いて(50円とか、100円とか・・・・)相応のお菓子を密かに持ち逃げする、楽しい引き出しなのである。
子供達も、時折、10円とか30円とか置いて、お菓子を持ち去っていたりする・・金額の差は、当然、経済力の差ではある・・・(笑)
もともとは、咳が出るので、キャンディを数種類置いていたのだが、仕事で疲れたときなど、一口だけ甘いものが欲しい・・・・なんて事になるので、プチ・スウィーツがだんだん増えてきたのである。
もともと、甘いものはさほど得意ではないので、私より、第三者が口にすることが多いお菓子だが・・・・
買いに行くのが面倒だったりすると、「駄菓子屋のんちゃん」へやってくる人たちのために、「ようこそ」と、店主のんちゃんは、いつもちょっと小粋なお菓子を数種類、混ぜていたりするのである!
心配性な人・・・(2010.2.9)
いつ来るかわからない地震が心配で心配で、仕事にならないから耐震つっぱり棒をしたそうだ・・・・
固定している棚ではないので※物理的に、この位置では何の役にも立たないのは分かりそうなものだが、これがなくては、恐ろしくて事務所の自分の席にも座れないそうだ・・・
この人・・・人にハラスメントを平気でするくせに、こんなことは変に神経質で驚く。
ちなみに、(独身なのでそんなに食べられないと思うんだけど・・)ものすごい量のキャンデイーを車に積んでいるそうだ・・・え?どうしてって?何か良く分からないけど、自分ひとりが災害の際生き残った時、非常食料にするのだそうだ・・・・
そんな未曾有の災害の際に、自分ひとり生き残れると考えてるところが、ホント、この人どうしようもないな、とがっかりさせられる・・・
(被害)妄想がたくましいとは思っていたけど(1年間まったく挨拶にも来ないで、顔を合わせてないのに、私にいじめられたなどと、物理的に無茶なことを言われたし・・・・)、こうやってちらほらとバカさ加減が表に出てくると、がっかりを通り越して、こいつあぶねぇ~^_^;と、思い始めました。
次にこの事務所に行ったら、シェルターとかできてそうで怖いです(笑)
1月末勉強会にて
東鳴子の地大豆2種が、
立派な一升枡に入って、
豆シボリのてぬぐい付きで、
送られてきました。
みなさんにお分けして、
お世話してくださった大沼さんに、
お送りする記念ショット。
大沼さんたちは、
今年も地大豆湯治を続けるそうですが、
同じように私たちがお申し込みするには、
なかなかパッと参加できないこともあって、
ちょっと厳しいかもしれませんね、
と話し合っています。
重曹泉の里とのよいつながり方を、
またなにか考えていきましょう。(^^)
私をあたためてくれるもの
とても寒い日が続いて、
ウールのコートやダウンジャケットが大活躍。
でも薄くて軽いベージュのダウンは、
雨に降られて水のしみができてしまった。
色がうすいジャケットだから、
雨の日は着ないように気をつけていたけれど、
帰り道に降られてしまってアウト。
クリーニング屋さんは、そのしみを見て、
水ならば大丈夫でしょうけれど、といい、でも最近ですね、と、
よく見かけるダウンのトラブルを教えてくれた。
それは服の表からではなく、
裏というか、内側から来るという。
たくさん出回るようになった安いダウン。
中には仕上げを相当に簡略化したものがあり、
羽や羽毛は鳥の体表から引き抜くものだから、
私たちの髪の毛やうぶ毛と同じように、
根元に毛根や血液などが残っている。
それを何度も洗って乾かす手間を、
かなりのところ省いてしまうのだという。
中には水鳥ではなく、陸鳥から羽を抜いて、
陸の鳥というのは水鳥と違って、
抜くと筋肉組織まで付いてくるから、
もちろん、きちんと洗浄できていればいいけれど、
コストのために、それすらはしょる例もあるそうだ。
そういったものが、
中から浮き出してしみになる。
しみまでいかなくても、
ずっとにおいがとれない。
そんな例が急増しているそうだ。
手軽に服を次々買って楽しむのもいいけれど、
一歩立ち止まって考えるとね、と、
クリーニング屋さんは、ため息をついた。
本当にそう。
やっぱり大切にしよう。
私をあたためてくれるそのジャケットは、
どこかの鳥からいただいたものだ。
たくさんの人手を介してはいるけれど、
もとは、いきもの。
ウールのコートは、
羊からいただいたもの。
絹は蚕のもの、
木綿はわたの木のものだった。
着たら必ず手入れをし、
少しずつ形を直したり、
ほころびを繕ったりして、
長く大切に着ること…。
そのことを、
感謝とともにあらためて思い出した、
今朝はまるで、
羽毛にくるまれているかように、
あたたかい、朝。
届いた!(2010.2.8)
当たり前なんだけど、注文していたものが先週末に続々届いて、おうちを占領している。
なんて素敵なこと!
早速、一緒に頼んでいた人にも、うきうきと、届けに行く。
そして、自分のおうちで料理して食べる。
幸せな味を堪能しつつ、ゆっくりと考え事をする時間を持てる・・・
新しい食材が届くと、メニューも変わる。
組み合わせを考えるのも、味の変化を楽しむのも、時間に追われていてもなぜか取り組んでしまう・・・・
あれほど、家事が苦手で、女に生まれなければよかった・・・とさえ繰り返し思っていた私が、最近では、家事が趣味であり、仕事となった。
味をリセットする為に、メニューを広げる為に、外食は必要だけど、お家ご飯を大切にしなけりゃね!
言って悪いこと(2010.2.7)
良いか悪いかを判断する時、その人のバックグラウンドを基準の一つに私は数える。
例えば「今はとっても真面目です、若い頃は親の手に余るほどにやんちゃだったですけど・・・」
という人がいれば、きっと今も実はやんちゃなんだろうと思う。
ただ、仕事なり、趣味なり、エネルギーのはけ口が見つかったから、家族や仲間に迷惑じゃなくなっただけなんだろう。
それを奪いさえしなければ、そのひとは、世の中で、普通の評価でいられるんだと思うのだ。
でも、私生活のめちゃくちゃな人は、その時はいいけれど、おかしなサイクルで回り始めた時に、軌道修正ができない場合が多い。
最初はテンションが高く、自分でなければやれはしないのだ、と言わんばかりの仕事がバリバリできていた人でも、神経が磨り減れば、カンが悪くなり、段々と手を抜き始め、やがて仕事に支障をきたす・・・・
私生活が充実している人は、スロースターターでも、着実に仕事をこなしていく・・・家の中の主であり、かじ取り役である自分を認識しているから、クビになるわけにいかないので、仕事も丁寧で、何事にも勢いはなくとも熱心さと安定がある。
守るべきものがある人とそうでない人の「差」なのだ。
大して出来のよくない人でも、守るべきものがあると俄然強くなる。
毎日彼が違うのよ、なんてことを自慢げに話す女性や、奥さん以外の女性にうつつを抜かす男性は、理性で物事を判断していないから、いずれ、おかしな幕引きをせざるを得なくなる。
自分すら大切にしなくなるのだから・・・
理詰めで物事を考えるなんてなんて無粋な人だろう・・・とか、だって仕方ないでしょう、こうなったものは!なんて、開き直ったり、いかにもそれらしい言い訳を用意もするけれど、本当の理性を分かっていないんじゃないかな?確かにどうしようもないことはあって、その時人は戸惑うし、好きになってはいけない人を好きになることもあるんだと思う。
でもね、実は失恋すれば、諦めもついて、次の恋に進めるのだから、何もそこにじっとしていることなんてないんじゃないの?って思うのだ。
アンタは本当の恋愛を知らないからそんなことが言えるんだよ!なんて、若い人にまくし立てられそうだけど、たかだか、恋じゃない?
地球がひっくり返るわけでも、誰かが死んじゃうわけでもないんだから、もっと気楽に考えればいいと思うのです。
「死ぬほど好きなの」なんて言っても、それで死んだ人を見たことないし・・・
周りの人たちを見ていて、どんなに好きだとか、どうだとか言ったって、子を思う親の気持ちにかなうものなんて、きっとないでしょう、ってね。
無償で、無条件で、利害関係のない、ただ純粋に大切にする愛を育んでいる親子はとても美しいと思います。
そういう中で育てるからこそ、その子供達は、また、次の世代を愛していくのでしょう。
愛情は伝染する、と生物学者が聞いたら非科学的でぶっ倒れそうな結論ですけど・・・そう思います。
安っぽい馴れ合いを世紀の恋と勘違いしている人たちは、それを本物にするための努力を怠ってはいけないんですよ!
最初はみんな、そんなもの・・・・その後の愛情のかけ方で違ってくるのですから・・
子供達への愛情の示し方を間違えた時、よく思うのです・・・私の親も、こうやって、不器用に私を愛してくれていたのだなあ・・・・ってね。
愛情は必ずしも心地良く相手に届けられるとは限らない。怒りだったり、残酷だったり・・・・でも、受け取る側も上手く受け取れるとは限らない。
どんなに愛情を押し付けても、そのままの形では伝わりにくいことがある。
自分の愛情がまだ残った相手に別れを告げられたら、きっと憎しみや悲しみとなって、嫌な言葉を投げつけるだろうし、逆に心がもう残っていない人にいくら愛を表現されても、心は閉じていくばかりだ・・・
お世辞にもそういうコミュニケーションが上手とはいえない私がなんとか母をやっていられるのは、とにかく、何があっても逃げずに、何度でもやり方を変えてチャレンジしているからなんじゃないかと思うのだ。
でなければ、子供達は今頃、何も私なんかには話したりしなくなってて、冷め切った家族の出来上がり!ってことでしょう・・・・
人生いつも背水の陣・・・ここより他にいいところなんてないのだってこと、嫌だったら心地良いように、自分でやりかえること・・・それを心してこれからもやっていこう。
仲良く見えることは、その人たちは多分、努力してるんだって気がついたほうがいい・・・・
棚からぼた餅は、そうそう人生で何度もはないんだからね。