2月23日(木)しみは楽しみ

昨日に引き続き、
本日の食卓でも赤ワインに遭遇する。
「遭遇」というのは、自分で決めた成り行きではないからだ。
お客さまに好きなものを、と選んでいただいたら、
再び赤ワインの登場となった。

昨日の余波が残っているせい、ということにしておこうか、
途中、不覚にも白いシャツの胸元に数滴、ワインをこぼしてしまう。
フロアサービスの若い女性が私たちの騒ぎを見て、
素早く新しいナプキンを何枚かと大量の紙ナプキン、
それにコップに入れたお水を持ってきてくださる。

と同時に、一テーブルだけに聞こえるくらいの声で、
「よかったら炭酸水をお持ちしましょうか」と微笑む。
オヤ、と思った。この方、よく知ってらっしゃる。
お願いして、あとは食事とおしゃべりを楽しみながら、
時折そっと炭酸水でシャツのワインのしみを押さえ、
落ち着いて始末することができた。

蛇足ながら、しみは布の面に対して垂直に水を移動させて抜く。
水を移動させる力はただひとつ、浸透圧の差だ。
そこにさらに乾いた紙による吸湿力(と、できれば重力)を作用させ、
一気にしみを含んだ溶液の移動を完了させる。
彼女が持ってきたものは、すべて理にかなう道具だった。
さらにこの溶媒として水より炭酸水が効果的ということを、
さりげない提案の形で勧めてくださったことも、
相手の前で微妙な失態を演じている不調法者への救いとなった。

「へえ、そうなんだ」と、一陣の風の吹き抜ける驚きとともに、
お相手の意識はその場でじりじり目立つワインのしみから、
炭酸水という飲み物の持つ意外な、しかし普遍の性質に移っていく。
目の前のしみ抜き作業が、単なる応急処置の取り繕いから、
ぶっつけ本番の実験のように見え始め、
経過の観察がある種のゲーム性を帯びてくる。
ハプニングがイベントとなり、楽しみの軽みに遊び始めるのだ。

デザートにさしかかるころには、キレイにしみはとれていた。
通りかかった彼女に心を込めてお礼をいうと、
ニコッとおじぎをした。フランスにいたときに見て覚えたやり方で、と。
市井に伝わる素朴な知恵を見逃さず、今ある環境の中で、
的確なサービスの域にまで洗練して差し出す器量に感服した。

美味しいお店だったことには違いないが、格別心に残ったのは、
そのもてなしの爽やかさ、こまやかさ、温かさ。
スペシャルな思い出はこんなことからも発生しうる。

心のお掃除

あったかかったり、寒かったり・・・・そんな日が続いていて、ややもすると、体調を崩しそうな季節。
去年も、そのまた前の年も、おんなじ様な事を思い、書きとめていた私がいる・・・。

私は、思いついた時に、パソコンに刻んで保存したり、そこにあるスケジュールノートに書き留めたり・・・パソコンに至っては、家と職場とに複数台あるので、あっちこっちに思いつくまま「書き散らす」と言う事が多い。
夏に冬に書いた文章と出会ってギョッとしたり、そんな事もあったのか・・・としみじみしたり・・・・。
ブログを付けさせてもらえるので、今度からこういうことはなくなりそう・・・。
大して、文学的なことを書くわけでもないし、日記でもない・・・そんな雑文を書くことで、脳の中の要らない部分が搾り出されて、ようやくリセットできているみたい・・・。
いっぱいいっぱいの考えが活字に、文字になると、考えがまとまって、仕事が進んだり、ストレスが消えたりするから、私の雑文は、私にとって必要なのだ・・・多分。
読書と言う、他人の思考でモノを考えること、自分のまとまらない考えを文字に落とす事、これらは心のお掃除なんだなと、最近は思う。
一度追った字面は、どこか脳の片隅に残っていて、私を助けてくれる事も多いけれど、多すぎるものは、整理されずにそこに山積みで残る・・。
生理整頓して、いつも取り出せるところへ片付ける事は、ブログというツールを使えばますます楽になったと感じる。
昔の文を読みながら、ブログ用に今、まとめたりしているのだけれど、あまりにも古い内容だったり、まだよく重曹の事もわかってなくて、まちがった解釈をしている自分がそこにもここにもいっぱいいる。

自然の摂理に従った暮らし方をしていると、自然と考え方もそうなってくる。
~だから~しよう。そんな当たり前のことに、以前はたどり着けない事もあった。
無理な生き方は、自分を荒らし、周囲も荒廃させてしまう。

ナチュクリを始めて、一番大きな収穫は、この思いもかけない、発想の転換というところだと思う。

ますます、家にいるのが好きになり家の中の掃除にも熱が上がっている。

伊勢芋

先月の勉強会でioさんから頂いた伊勢芋で「とろろご飯」にしたときの食卓。

鯵の南蛮漬け、クルミ豆腐、大根としらたきと鶏ひきの煮物などが脇をかためています。

2月22日(水)和洋、揚棄すべし

和に限る、と言いながら、フタを開けてみると、
存外、洋のものを選んでいたりする。
頭で思っていることと、体で“思っている”ことは違う。

「何でも買っていいよ。
自分が食べたいもの、他人に食べさせたいもの、
好きにディナーのメニューを組んでごらん」
と、デパ地下に放たれた。

食品売り場を一巡りして、
正直、途方にくれる。
ここには何でもある。

人の胃袋の一食分はだいたい決まっている。
今宵集まる人々のために、食のストーリーを組み立て、
ふさわしい料理をふさわしいポーションで用意するのだけれど。

それってけっこうムズカシイかも。
選択肢ありすぎて選べないかも。
さて、どうしよう。

結局、名の知れた和食の名店がサアどうぞとばかりに、
大御馳走をズラリ並べているにもかかわらず、
買い物の足が向いたのは、カジュアルな洋風献立の道筋だった。

まずワインセラーで赤を一本。
それから、デリカテッセンでフレッシュグリーンのサラダをたくさん。
鮮魚コーナーで出合った大きめのホウボウ一匹に、
生鮮野菜コーナーで生ハーブをちょこちょこ用意する。
これは香草焼きにするつもり。

そして。
最初一周したときからステキだと思っていた、
とあるショーケースの店へ。
まあるいパイとキッシュ、タルトが並んでいる。
その中からチーズとポテトのキッシュ、カスタードのタルトを購入。
ワンホールずつ、大きくて平たい箱に入れてもらう。

ひとつずつ、ひとり分ずつ、皿で出てくるコース料理もいいけれど、
皆でワイワイいいながら同じ食べ物をつつく食事は楽しい。
ホールで置いて、食べたいだけ好きな角度を申請しよう。
「45度でお願い」「とりあえず22.5度」「90度行ってみようかな」

和食は、その成り立ちが、ひとりひとりの前にお膳があり、
決まった皿が並んでいるところから始まっているためだろうか、
皆の前に山盛りしても、下手をすると、
かえって総菜風に見えてしまうのだな、
と、あとで自分のあわただしい無意識の決断を分析した。

キッシュやタルトはフランスの家庭料理だけど、
ホールで差し出したとき、ちょうど和食の鍋モノみたいに、
丸いフォルムが皆を笑顔にしてくれる。山分け感のあるところが、
皆をニコニコ、いつのまにか食卓の仲間にするのかもしれない。

洋のものを和のように、
和のものを洋のように、
プレゼンテーションできるといいな、と思う。
互いが見事なアンチテーゼになっている、
それゆえ、和洋は互いに自らを映す良い鏡だ。

2月21日(火)G.Gershwinと歩いた

今トウキョウで一番好きな街は、と訊ねられたら、
アキバとシナガワと答える。
どちらも街の過去と未来が極端に交錯するところがいい。
高層ビルに中空から出入りするIT・金融の新興企業族。
その下の地べたをごちゃごちゃ埋める大小の商店、外国からの客。
車も通れない細い道にやたら人があふれる。

そのアキバを数時間ウロウロ。
いくつか買い物の目的があるが、
ちょっと前にホッと腰をおろした記憶のある店が、
「ご主人様お帰りなさい」と、
突如メイドバーに衣替えしていたりして驚く。

1年前はうらぶれた通りにポツンとあったインド料理屋さんは、
今やサラリーマンで行列のできる繁盛店に変わっている。
腕のいいオーナーシェフ、ラジさんはこういった。
「私この半年で30kgやせました。見て背中。何も肉がない」
これぞホントのやせ我慢。
しかし最初は閑古鳥に見えても、やがて大勢の客がやってくる。
その先見の明こそ、古い文明の宝。
ラジさん、最近は少しは太れたかな。

最後に、モノのついでと、
耳からよくとれて気になっていたイヤフォンを買い換える。
店員さんオススメの閉鎖型。
目立たず収まりのいいタイプ。
とたんに世界は音だけになり、
頭の中、ガーシュインが駆け回る。

本日の気分でなにげなく朝ピックアップした。
このままほかに何も見ず、聞かず、
このジャジーな世界に溶ければさぞ気持ちいいだろうな、
などと考えていたら、しばらくおとなしかった携帯が、
なぜか急に何度も大声を出すわ震えるわで、
現実に戻ることをキビシク要求するのだった。

ナーダ・ブラフマー(世界は音)。
いろんな響きを聞いている。
美しくても美しくなくても、
そう感じるわけを考える。
響きの来し方、行く末を見つめて、
9thくらいまでなら私もセッションできるかな、と思う。

そうか。
アキバもシナガワもガーシュインしてるんだ。
調子っぱずれギリギリの線で過去と未来をサーフィン。

やっぱ好きだなあ。

ネットというツールと周りの人達と犯罪の気づかない理由

どういうもんか・・・・私は「新人類」と呼ばれ始めた世代の生まれなのだけど、この世代の人達は、ぱっきり分かれると思う。

例えば、ネット・・・・今は色々なことをパソコンにお世話になるけれど、ことにネットは生活に「必要欠くべからざる」ものになってしまった。
未だに扱いは下手だと思うのだが、それでもなくなってしまうと、途端に何もかもが、にっちもさっちも行かなくなってしまう。

ところが、携帯でのメールくらいはするけど、頑なにPCを拒むきらいがある人も多い。
危険だとかまあ、テレビなんかでの悪影響をあれこれ言うわけだけれど、だからこそ、子供が危険なことに巻き込まれないためにも、最低限の扱いは親として知っておかないといけないんじゃないかと言うのが私の意見。

確かに、ネットは悪いところを上げればキリがないが、では、これは悪いからと言う理由で、現代社会からなくなってしまうのか・・・?
否、逆ではないかと思う。
では、この社会から消えないと言う仮定で話をした場合だが、子供はツールを扱うのに、親は扱う事が出来ないと・・・・・。
これでは、何が悪いのか、どこを気をつければ犯罪に巻き込まれないのかがまるで分からないではないか?
判断のつかない子供に判断を任せることこそが、私は怖いことだと思う。

例えば・・・・
「テレビゲームばかりやって困るのよ、お宅はどお?」
これも、実は我が家では困った事はない・・・。
私自身が、テレビゲームもやるので、「テレビゲームばっかりやってないで!」と言うと、「もうちょっと」なんて返事がよく返ってくるけど、「さっさとセーブしないと電源切っちゃうからね!ママはホントにやるよ!」と言う。
大体この言葉ひとつで、苦労して進んだゲームのデーターを消される事を恐れて、5分以内にスイッチを切る。
他のお母さんは、「セーブ(ポイント)」と言う単語さえ知らないようなのだ・・・・。
母が、ゲームに関して、大体のことを知っていると言う事は子供達には大きな抑止力となって働くようで、特別テレビゲームだからと言う事で揉めたことはない。
それを揉めると言うなら、他の遊びでも相当揉めてると言う事になる。

我が家は、家を建てるときに、実は、2階の「子供部屋」(現・家族の寝室)にすぐ、ネットがひける準備をしていた。
でも、それは使わないことにした。
リビングにずらっと機器を並べて、誰でもそこで公明正大にネットを楽しむのが我が家流。

我が家から、(意味のない)プライバシーがなくなっていく。
でも、それこそが、実は現代社会に欠けてしまい、そして足りなくなってしまったものではないのか?

そもそも、思春期と言う理由で、個室を与え、家族から隔離させることのほうが、私はご都合主義だと思う。
実は、そういう不安定な時期の子供と付き合って、こちらがうざったい気分になったり、正面から話をしてもめることを、親のほうが放棄しているのではないか?
要は、面倒くさいと言うそれだけの理由で、日本の家屋は、この「子供部屋」という密室を推奨しているのではないのか?と思う。
そこにさえ押し込めておけば、自分は平静でいられるから・・・・自分の子供に「臭いものに蓋」しているような扱いではないのか?

ふと、本屋でとった雑誌に、ある家庭(ヨーロッパ・・・記憶が定かではないが、たしか、イギリスの中流家庭のおうちだったと思うが・・・)載っていた。
何気ない間取りをちらと見ながら、決定的に違うことに気がついた。
トイレやバスルームといったものは、お国柄もあるので少し日本とは違っていたが、キッチンやリビングもあり、小学生くらいのお子さんが3人いる幸せそうなご家庭だった。
子供の寝室、親の寝室、そして書斎。

でも、日本で言う「子供部屋」がないのだ。

タイトルも「ごく普通のご家庭」というような含みのあるものだったのだが、それは私を大きく揺るがした。

お風呂やトイレは鍵がついている。
それこそがプライバシーの最たるもので、家族間でそれ以外にどんなプライバシーが要るというのだ?

我が家では子供が2人・・・以前は、勉強部屋もベッドも一部屋に押し込んで、いずれはそれぞれのPCまで、そこにセットしようとしていた。
周囲がそうだから、それが正しいと信じきっていた。

でも、よく考えると、一部屋にくつろぐ空間と、遊ぶ空間、勉強する空間が渾然一体になってること自体にかなり無理があるという事に、その時気がついた。
家の中で、それぞれが「ワンルームマンション」に住んでいるようなのだ・・・最近の日本の家は・・・・。
一部屋ですべてまかなえて、外に行く必要のない快適な空間。
まるで母親の胎内のようではないか?

こんな家が増えてき始めてからではないのか?何かがおかしくなってきたのは?
おかしくなったからこんな家に住むようになったのか?

だから、我が家では、突然、子供の成長に合わせて、その「子供部屋」という「穴蔵」から引きずり出した。
自分の足で歩けるようになった子供に「胎内」は要らない。
外の風に当たり、地面の感触を味わい、辛いことや悲しいことも知る。全部自分で消化しなくてはならないのだ。
帰って休む場所、心落ち着ける空間は必要でも、逃げ込んでいつまでも籠もっている場所はとても危うい。
人と触れ合うことを避け、自分を磨かない人間は、いつまでたっても「赤ん坊」と同じだ。
大人としての感覚が育たない。何一つも・・・・。

一体、日本にどの位、心地よく、かつ危ない空間が存在しているのだろう。
メリハリのない胎内で、人は真実を見なくなる。
自分の鼓動だけを聴きながら成長する恐ろしさを、本当に誰も気づいていないのだろうか?

ネットさえ遠ざければ、危険な人間は育たないと言うのか?
ではネットをしている私は危険な人間なのか?
そもそも、ネットに没頭するための空間が揃いすぎている、この日本の「家」そのものが危険な人間を入れておくカプセルのようではないか?
危険な人間を営々と養い育てているのだ。
お金と手間と時間をたっぷりとかけて・・・・。
足元をすくわれるような、ひやっとしたこの感覚は、私だけが感じているのか?

思春期に入る長男は、書斎で、自分の机の周りをマーキングし始めた。
色々なものを机や椅子にかけたり重ねたりして、自分のエリアを主張している。

それで十分ではないか。
あなたのエリアも私のエリアも、それは、でも、地球が私たちにほんの少しの間貸してくれているに過ぎない空間なのだ。
100年後には必ず影も形もなくなっているものだ。

家は随分スッキリしてきた。
本類はすべて書斎に集め、寝室はベッドだけ。地震にも安心だ。
余分なもののない寝室は掃除も簡単。
また、書斎は子供の机と、大人用の大きな机をひとつ・・・合計3つ置いてある。
本棚に、共用の辞書や小説、漫画や資料を並べれば何冊も同じものは要らない。
共用のものと私用のものがぱっきりと別れ、不必要なものをそぎ落とす・・・。

使っていない部屋に不必要なものを集めて、今、整理整頓中。
こんなにも、要らないものに囲まれていた悲しい私たちだった。

ものに囲まれた生活は、実は不便だったのだとやっと分かった。身をもって。

まだ、どう使うか考えなくてはならない部屋があと3つ。
あと半年かけて、この要らないものを追い出し、快適を手に入れようと思う。
ほんの少しの不便が、実は快適で、たくさんの物を使う快適さは実は不便・・・。
ナチュクリと同じ・・・そうなのだ、物の本質はいつでも同じ。
気づいてからいつも「なあんだ・・・」と思う。
「なあんだ・・・」をもっともっと見つけよう。そして、たくさんの本質の根を掘り当てよう。
そうすればもっとシンプルで扱いやすい生活になっていくに違いないのだ。

たくさんは要らない・・・欲しいものを買う生活ではなく、必要なものを買う生活にしよう。

飽食が産んだ日本の狂った構造は、小さな家の中にも潜んでいた。
あふれんばかりのガラクタに隠されていた。
そのねじれた構造を、私は決して許さない。

辰巳芳子さんのDVDスープ教室出ましたよ~♪

NHK出版さんのDVD+BOOKのシリーズで、
NHKきょうの料理「いのちを養う四季のスープ」です。
2006年2月16日発売、2,730円 (本体2,600円)なり。
テキスト48ページと120分のDVD1枚がついて、
「お得だと思うわ」と辰巳さんもおっしゃっておいででした。(^^)
普通に本屋さんでも手に入ります。ぜひ、これで学んで、
一緒にたくさんおいしいスープを作りましょう~。