いっそ・・・・・

ある意味、はらわたの煮えくり返る・・・・とはこんな思いかもしれない。

心無い人の言葉に傷つく・・・。
「中途半端に生きているくらいなら、いっそ一息に死んでくれたら家族は楽なのに・・・病人本人もそのほうが楽なのに」

その言葉は、私を慰めようとして言った言葉の一環かもしれない・・・一見、真理をついてる人の言葉のようにも聞こえる。
ドラマで聞いたこともあるし、もっと若い頃、そう考えた自分がいなかったわけでもない。
身近にそう言う人がいなかったから、無責任にそう思っていたのだ。若くて何も知らなかったから。

その人は、誰かを介護したこともないし、身近な人が亡くなった経験もない・・・。
ただ、私がそう考えていた頃と違うのは、その人はもう、若くはなくて、もう少し他人や周囲を思いやって話を出来る歳でなくてはならないのに・・・と言うことだった。
少なくとも、考えを表に出すのなら・・・。

私は、たとえ、母にとって残酷でも、この取り留めた命と能力の続く限り、何とかして生き抜いて欲しいと思っている。
そんな風に思っている私にとっては、その人の言葉はあまりに正反対だった。
勿論、本当の介護がいかに大変か、体力と精神力がどれほど辛いことになるか・・・・私自身、自分ひとりの肩にかかったことはないから、それは分からない。
しかし、家族として、祖父や父の介護を、時折、母や祖母に代わって、大変だと思ったことはあるのだ。
要領が悪くて、うまく行政を利用できていなくて、自分達で抱え込んでしまったところもある。
だんだんと、人様にいろいろと聞いて、最後には少しずつ楽になったけれど・・・。

相次いで2人を見送った後、母も祖母もすっかり疲れ果て、こちらも相次いで入院となった。

私もあまりな出来事に、体の調子を次々崩し、本当に大丈夫になるまで、数年かかったのは、そう前のことではない・・・。

それでも、命ある限り、母は生きている。
決して、他人が勝手に生き死にを左右することなど出来ないのだ。
母がまだ、こうして生きていてくれると言うことは、すなわち、まだ、この世でなにかを成し遂げていないのだと思う。
母は、今日も分かっているのかいないのか、私や子供達、弟の顔をしげしげと見つめる・・・・。
たとえ、リアクションはなくても、それでも分かっていてくれると信じたい私たちだった・・・。

今日は、婦長さんと(今でもこの呼び方で正しい?)
朝、時間を合わせてお話をする。
正直に、自分達の状態を説明し、母の介護をどうするか相談した。
確かに、長期入院は難しいし、今の母の状態では、入院できる病院も限られてくる。
でも、ないわけではないし、当たるしかない。
事務的な手続きがごちゃまんだ・・・。
家族に何事かあっただけでも残された家族は大変なのに、悲しみに浸る暇も決して与えてはくれない。
行政の恩恵に預かりたければ、機械的にしっかり動けと言わんばかりだ・・・・。
こちらが知らなければ、受けるべき資格や権利があっても無視される・・・。
個人情報保護法とかで、山のように、委任状やその他書類が必要で、これからの、そういう細かなやり取りが私を、弟を・・・ユウウツにする。
なにか間違っているこのシステムと、知り合いの発言を考えながら今日が終わる。

でも、母は、まだ生きていて欲しい。
もしかしたら、母がこの世に何かを残してないのではなく、私にしてあげられる何かを、まだこの人にしてあげていないから、生かしてくださったのかもしれない。

介護生活必需グッズ

こういう、とてつもなく大変な介護というシーンでも、重曹たちはすでに役に立っている。

まず、汚れたものを入れる袋に重曹をぱらぱら・・・・。
これであまり臭わないし、持って帰るまで少しお洗濯も始まっている。
食事をする時、よだれかけのでっかい感じのものを使って、服などが汚れないようにカバーするのだけど、ここにも食事が終わったらぱらぱらかけておくと、後が汚れ落ちがいい。

歯磨き剤作成
これも、重曹とグリセリンで作成。
母のように、半身不随だと、口も片側うまく動かないので「嚥下」も「咀嚼」も一苦労。当然、歯磨き後のうがいも上手くは出来ない。
いくばくかは飲み込んでしまうから、これはやはり市販のものより数段安心。
また、うがいをするコップにも重曹を少し入れて、重曹水にしてうがいをさせると更に素晴らしいなあと思う。

母は、部分入れ歯を使用しているのだけど、これを浸け置く容器にも重曹水。臭わないし、たまにはクエン酸を持ってきてあげてぶくぶくしてあげようと思う。

食べて終わったあと、口周りを重曹水をしみこませたお絞りでぬぐってあげるとさっぱりして気持ちよさげ・・・。

まだ、直接自分がしていないので、アウトサイダー的使用だけど、こんな感じ・・・・。
重曹って頼りになる。

介護生活3日目

どうして私はこんなことを文章にしているのか・・・?
もうこれは、私のストレス解消のひとつなんだと思う。
10年以上も文字を仕事にしてきた私には、この方法しかストレスを表に出す術を知らない。

そんな中、3日目。

病院からの連絡で、「重篤患者室」を出て、一般病棟に移すと言うことだった。

なので、ようやく、学校から帰った子供を連れて母に会わせに行く。
ちょうど、家庭訪問の日だったので、帰宅時間が早く、お見舞いにはもってこいだった。
最初に行った時はちょうど、眠っていて、子供達はがっかりした。
習い事に送っていって、その帰りに再度寄ると、今度は食事時だった。

2歳児並に、かなりワイルドに食べてる母は、子供達にもちょっとばかりショックを与えた。
でも、やはり、それはなんとか現実と受け止めたようだ。食事時にはまたたくさんのスタッフに囲まれて、再度、スプーンを選択されていた。
今度は、ゼリーや、ちょっとした固形物を口に運ぶためにどれが使いやすいかというテーマだったようだ。
幾分深めで小ぶりの透明なプラスチック製のスプーンが母には良いようで、それを持たされた。

昨日よりは随分スムーズに口に運んでいた。
こぼれるし、食器を支えられないので、お皿は逃げるし・・・で、大変だけど、それでもなんとか自分のノルマは果たしている。

食べて終わって、片付けてもらって、口や手を拭いてもらってから、子供達は自分の祖母に話しかけた。
「早く良くなってね!」
「待ってるからね!」
そう言って、手を握ると、母の目は子供達を追いはじめた。
看護士さんが近寄ってきた
「多分、分かってるよ、もっといっぱい話してあげて、握手もしてあげてね、ボクたち!」
子供達はそれから、子供にしてはかなり長い時間、話しかけたり握手したりを繰り返してくれた。
私より、はるかに妙薬だったみたいだ・・・。

でも、すでにもうすぐタイムリミット・・・帰る時間になってしまった。
耳元で説明して、病室を後にした。

確実に良くなっている・・・そんな思いが少し私の肩の力を抜いてくれた。
どこまで回復をしてくれるのか分からないけれど、アウトサイドからでも何かしら出来ることはあるはずだから・・・・。
単純だなあ・・・こんなことで、もっとがんばれる、そんな風に思うのだから・・・・。

介護生活2日目

日曜、母のところに午後駆けつける。
タオルやたくさん必要な紙オムツを持って。
驚いたことに、すでに座位の体勢だった。
寝てばかりいると、筋肉が固くなるそうで、体位をよく変えることでそれを軽減しているのだ。

あまり変化は内容に見えるけれど、昨日に比べて、断然動きが早く、そして多くなってきている。
左目の焦点も合い始めているようで、明るい方向に目を向けることが多くなってきた。

私の手を握る力も強くなって、昨日は熱で熱かった手が、普通の体温に戻っている。
夜になると少し熱が出るのは相変わらずらしいが、37度代に落ち着いてきているそうで、昨日までたくさん枕元にあった氷枕が2つに減っていた。
とりあえず、昼は発熱していない・・・。
方向は良好なようだ。
なんと、介添つきで自分でスープなどを口に運べるようになっていますと担当の看護士から話を聞いた。

そんなことさせて大丈夫なのだろうか・・・と思うけど、ここではそのくらいは当たり前で、患者を決して甘やかさない方針が貫かれている。
その人の持つ能力が100か0という究極の状態なら、100でいて欲しいからそうするのだ。
プロに徹している人達は、優しいけれど、出来ることをサボることは決して許さない。
よほど高熱でない限り、その時出来ると判断したリハビリは、時間を短縮したり、付加を軽くするが、決してやめさせない。

これは、数日後顕著に母の体に現れ始める。

この、スープを口に運ぶと言う作業のために、色々な種類のスプーンが母のところに置かれていた。
注意深く観察しながら、
「もう少し柄が長いのとって」
「長すぎるかな、もう少し短いのにして」
「うーん、スプーンが深すぎるみたいね、もっと浅いのにしよう・・・」
と、今の母が持って食べやすくするための道具選びをしていた。

結果、2種類のスプーンが残り、他は片付けられた。

道具選びは、こういう生活をするためにも、大切なのだと言うことが分かった。
使いにくい道具は確かにストレスが溜まる・・・。
やりたくもない、辛いリハビリならなおのこと、少しでもそういう負担は減らさないと、続かないことをここのスタッフの人はプロだから分かっているのだ。

私は昨日の夜、母のために歯磨き剤をいつものようにつくり、手作り石鹸を持って行った。
今の私に出来るのはその程度のこと。
もっと手を貸してあげることが増えるくらい、はやく元気になって、お母さん。

大きな声で、「がんばって」と連呼する私。
みっともなくても構わないんだ。
それで少しでも良くなるなら。

そして今日は帰途に着く。

家に着くと仕事から帰った主人が行くと言うので、かえるや否や、病院にとんぼ返り。
またまたみっともなく、「がんばって!」
たくさんエールを送ろう、どれかひとつでもこの人に届くように。

介護生活1日目

完全看護の病院だから、帰ってくださいと告げられる。
実際、今は、覚醒したりまたふっと意識がなくなったりを繰返している母は、私たちの手が必要ではなかった。
今の母に必要なのは、何事かあった時のための適切な処置と、最先端の現代医療やら・・・そんなものだった。
母を置いていくのはなんともいえない気持ちだったけれど、何かあったらすぐに連絡は入るので、病院におまかせする。

夜遅くに帰宅し、家族と色々と話し合う。
生命保険の話や、最悪の場合の話から、在宅介護になった場合の事まで。
シュミレートして、それぞれの役割分担や、とりあえず病院から言われている必要なグッズまで。それらの事を確認しながら進めていく。
そして、ようやく、皆、それぞれが一瞬ではあるけれど、母のことから解き放たれて、それぞれの場所に戻る。

眠れない、どうしても眠れない。
まんじりともせずに夜が明けた。
肩も背中も、胃や腸もことごとく重い・・・。
体中がなんとなくむくんでいるのが分かる。

でも、朝がきた。病院から渡されたリストを持ち、今日は午前中に買い物に行き、午後から病院にいく。
一応、14時から19時と面会時間は決まっていて、それ以外の時間は遠慮してくださいと言われている。

おばあちゃんがどうしても一緒に行くといって聞かないので、連れて行く。
そして、母の病室にたどり着く。
4人部屋に3人入っている。
向かいの人は、つじつまの合わない返事を繰返しながら、手足が動かないのに、ベッドから無理に降りて点滴が抜けそうになるものだから、何度も何度も看護士が来る羽目になっていた。
カーテンをひいているのでちらとしか見えないが、隣の人は、仰臥したまま動かず、家族は泣きはらした顔で、ただ椅子に座っていた。

そして、私の母は、えらい事になっていた。
2人の看護士に両腕を抱えられ、座らせられて、「嚥下食」というものを口から入れられていた。
そうだな・・・時代劇の拷問で、貼り付けにされたまま、毒を飲まされる・・・って言うのがあるけど、まさにそんな感じ・・・。
「○○さん、はい、飲んで、ごっくんして!」と、大声で指示されながら飲み込んでいた。
紙コップに入ったそれは、お茶ゼリーなんだそうだ。
食べて終わると、またベッドもフラットに戻し、体を横たえてくれた。
目が開いていて、意識があるようだった。
横になった途端、動く方の左手が宙をふらふらする。

おばあちゃんがその手を捕まえて握ると、母も握り返してくる。
分かっているのかいないのか・・・それでも、ぎゅっと握り返す。
ちょうど、弟もそこへやってきた。
代わる代わる、母の手を握るのだけれど、どうもそうしていると安心するようで、手を離すと何かを掴もうとしててをふわふわと漂わせる。
体も起こそうとする。

ずっと泣かなかった、涙の出なかった私だけど、ようやく、そんな母を見て涙が出てきた。
昨日のこの時間に元気に畑でお花を植え替えていた母は、この人と同じ人物なのだ。
たった1日でまるで人が変わってしまったけれど、これが私の母なのだ。

涙が、今度は、止めようにも止まらなくなってしまった。
鈍い鈍い私は、ようやく、母を受け止めたのだ、今の母を。
頭の中で、元気だった時の色々な母の残像がぐるぐる回る。

担当の看護士さんが「○○さんのご家族ですか?私。今日、この病室の担当の△△です」
そして、今日やった嚥下食を飲むという最初のリハビリ・・・朝にもやっていて、そして、状態の説明もしてくれる。
眠れなかった昨夜、ネットで一応の下調べはしていた私は、今の母の状態をこの辺かと想像する。

このTIA(一過性脳虚血発作)をおこしている間は、まだ、どれくらいのダメージか、専門家でも分からないそうなのだ。
脳圧の上がる一番危険な3日間と、TIAが落ち着く1週間程度が予断を許さないそうで、このすごい名前の部屋に入っているのだ。
でも、私は無力だ。
母がこんな状態でも、ただ見つめることしか出来ない。
手をとって語りかけるしか出来ない。
母が戦っているのを、ただただ、見つめている力なき自分の情けなさ・・・・。
この部屋にいる人たちは、どの人も、みな、文字通り命がけで戦っているのだ。
私などにはかなわないくらい全力で・・・。

泣いてる場合じゃないのに、やっぱり涙は止まらなくて、随分長い間、めそめそしてしまった。
やっと、落ち着き、今度は、鈍いから泣かないんじゃなくて、大体を理解して、今は泣いてる場合じゃないから泣かないことにする。
感情のコントロールは難しいけど、泣いたって、なにも解決しないのだから、だったら明るく、笑顔でいることが、結局は母にとっても、良いに違いないのだから。
そんな折、叔父も再び駆けつけてきて、同じように母の手をとってくれた。
みんなで踏ん張らなくてはならない。
今がその時なのだ。

すったもんだの末・・・・

色々な手続きと、たくさんの質問と、処置をするための次から次への捺印・・・そんな事務的な手続きが山ほどあって、着いてきてくれたおばさんを送り届け、そして、次は、もしかしたらもしかする母の兄弟に連絡をとる。
こういう時、携帯電話ってありがたいもので、一押しで連絡がつく・・。
母の兄2人がとるものもとりあえず、すぐに来てくれた。

かなり長い時間だ・・・・母が倒れてから、3時間が過ぎようとしていた・・・・。
ようやく、ベッドに寝かせられ、点滴をつけられた母が戻ってきた。
そして、詳しい事は後で、と言われ、すぐに「重篤患者室」に入るためエレベーターに載せられる。
私たちは2階に後で向かう。

部屋についてもいろいろとしなくてはならない事があるようで、まだ、私たちは数メートル離れたところで、意識のない母を見つめていた。

おばあちゃんやおじさんたちをそこいらにあるベンチや椅子に座らせて、さて・・・と時計を見ると11時少し前。

「○○さん、先生からお話があります」と、女性の看護士さんが私たちに声をかける。もうね、ドラマのままです・・・。
母の脳の写真数枚が、ライトで浮かび上がり、そして、明らかに、普通ではなく、白く浮き出た部分が素人目にも「これはかなりいっている・・・・」と思わせる。

「さて、私が今回担当した医師の○○です。」

そして、説明が始まった・・・。

母の場合、左脳の3分の2から4分の3がかなりなダメージを受けている。
かなり大きな動脈が詰まったようだった。
そして、恐らくは、運ばれる数時間前に実は、もうなっていたらしい・・・自覚症状もないままに・・・・。
そして、最悪は、これから3日間の間にまたあちこちで脳梗塞が起こりやすい事と、脳圧が上がる事。すなわち、脳死になるということ。
そして、希望的観測も含む、いい方向の事は、リハビリをする事によって、機能障害は残って、車椅子も必要だろうけれど、なんとか、まだ、人生に楽しみを見つけて、生きていく可能性があること。
言語中枢もかなりなダメージで、意思の疎通は普通には困難が予想されてしまう・・・。
でも、このへんの事は、落ち着いてからのリハビリ如何にもよるし、まだ度合いは不明だった。
脳がいっぺんにこれだけのダメージを受けると、体中の至るところにパニックも起こす事がある。
分かりやすいのはいわゆる、全身痙攣のようなものだけど、見えない部分で、例えば、唾液や涙が出るのが止まらなくなったり、若い女性だと生殖機能に関する事がいろいろと狂ってきたり、免疫力が下がって、いつもならかからないような病に侵される可能性がかなりあるというのだ。
じつは、よしんば、命をとり止めたのに、こちらで亡くなってしまう方もかなりいるということだった。データーはないけれど、ガンなども免疫力不全によって引き起こされている場合も想定できるのだろうな・・・(ここだけは私の憶測だけど・・・)

だが、この時から、もうすでに、母は、戦わなくてはならなかった。
なったその時から、なんと、リハビリは始まっていた。
つまり、私の「介護」という名のもうひとつの家事も始まっていたのだ。まだまだ自覚はなかったけれど・・・。

病院での過ごし方

病院に着いて、夜間入り口で名前を名乗り、慌てて指示された場所へ向かう。
おばあちゃんと、近所のおばさんがいた。
おばあちゃんを一人で行かせる訳にも行かず、着いてきてくれたのだと言う・・・普段なんだかんだあっても、顔見知りのご近所があるのはありがたい。
「お母さんは?」
「それが・・・・・」
着いてから、あちらこちらと、検査検査で、どこにいるのか分からないと言うのだ・・・。
でも、ここで待っていてくださいと指示されたので、ここにいるのだという・・・。

私が、少し落ち着いているのには、数年前、義父がやはり、脳梗塞になって交通事故を起こし、この病院に運ばれたという経緯があるからなのだ・・・。
検査が終わるまで、じたばたしてもしょうがないのも充分知っている・・・。義父の時は、無駄にみんなでばたばたしたけれども・・・。

目の前を、何人ものスタッフに囲まれて、ベッドに載せられた母がガラガラと通り過ぎていく。
母だと分かったけれど、別の部屋でまた別の検査をされているらしい。
こういうときは、本当に無力で、私たちはただぼーっと見ているだけだった。
母を見ているうちに、救急車がまた到着して、患者を置いていく。
若い女性だ・・・交通事故らしい。
後からすぐにその家族も駆けつけた・・・こちらの家族は半狂乱だ。
泣き叫ぶ声が聞こえる・・・・その女性の名前を母親らしき人が呼び続けている・・・・。
こんなシーンなのに、やっぱり、これは、もう、私の神経が傷つかないために、わざとそうしているとしか思えないのだけれど、鈍くしか感じない。
ああそうなんだ・・・・そんな感じだった。

母より前に担ぎこまれた、母よりは大分高齢の男性が、処置と検査が終わって、私たちの目前を、ベッドに載せられ、家族とともに横切っていく。
こちらは、どうも大したことがなくて済んだらしく、家族の表情は明るく、スタッフの表情も柔らかい。本人が意識もあり、酸素マスクを持ち上げながら、家族となにやらやり取りをしている。

まさに、テレビドラマの「ER」さながらで、目の前で明暗の分かれる家族を見せ付けられる。私たちはどっちなのだろう・・・?そう考えると、少しひやりとした思いが心に触れる。

男の看護士と思われるスタッフが、紙の束を持って私たちの前に現れる。
「○○○○さんのご家族の方ですか?」
「そうです」と答える。

まずは倒れた時の状況を聞かれる。これは、一緒にいてくれた近所のおばちゃんに大いに助けられる。
それから、母の病歴や、かかっている病院、飲んでいる薬など、一般的な質問が続く。
それから、母の母や兄弟の病歴、血縁関係の病気を聞きながら、普段の生活ぶりなどもあわせて聞かれる。

そして、「臓器提供カードはお持ちですか?」と聞かれる。
「いえ、母は持っていません」
「お元気な時に、そのような意思表示はありませんでしたか?」
「母は、しないです・・・」

私は臓器提供カードを持っている。家族にも説明をして、全ての臓器提供に○をつけているけれど、母は、そういうことに恐怖を感じるタイプだった。
死んだも同然の人から、内臓を取るなんて・・・・と、恐々言ってさえいた・・・。
だから、あり得ない、臓器提供なんて・・・。