便利な介護グッズ

母の容態は残された機能はそれなりに、悪いところは悪いなりに安定をしてきた。
その中で、問題なのがむくみ。
いわゆる、「エコノミー症候群」と呼ばれるもので、あまり動けないものだから、足がむくみがちになる。
無論、リハビリやマッサージを行うけれど、それでも、むくみのスピードにはかなわない。
ましてや母は脳梗塞を起こす体質なのだから、また再度起こしたら、脳は本当に助からないわけだ・・・。

で、登場したのが、ハイソックス丈の、指先の開いたストッキング。

ホースの口を握ると水が勢いよく飛ぶのと、物理的には同じなのだけれど、かなりサポート力の強いものだ。

履かせるのはけっこう大変だけど、なんと、息子達も手伝ってくれて、母はそれを履かされた・・・・。

むくみ具合がかなり違うようで、これで、予防にはなる。嫌がらないので助かる。

血糖値の依然高いままの母は、当分糖尿病食を余儀なくさせられるわけだけど・・・・。

それの栄養指導教室もあって、出席しなくてはならない。
あまり、気乗りはしないけれど(カロリーとビタミンなどの話が主なのだろうから・・・)出席することに同意する。

母は、甘いものや炭水化物が好きだった。
殊に、パンは大好きなもののひとつだったけれど、それらを含めて、制限が設けられる。
ボーダーラインが出来てしまうのだ。
緩衝地帯はない・・・。
そういうものを極力摂取しない料理を私は作ることが出来るけれど、美味しくはないのだろうな。
さて、どういう教室だろう。

母が倒れたから、学ぶことも増えた。

なかなかゆっくりとは・・・

この2・3日、病院に行っても、母の横でゆっくりしている暇がない。
子供の学校の行事だったり、頼まれていたことだったり・・・・時間に追われる。
本当にごめん。

今日、病院について調べていると、「リハビリ」って、入院の理由には半年しか使えないことが分かる・・・。
この4月からそうなのだそうだ・・・。

脳梗塞患者は、8割は半年で大体おうちに戻れるそうだが、2割はそうではない・・・。
母は、この2割にどうやら当てはまりそうなのだ。

お役所って、どうして何でもこう、フラットにしちゃうんでしょうね・・・。
個人差や例外を決して認めない・・・ずるいことする人がいるから・・・という理由で・・・。
それを取り締まったり、適正に判断するのが仕事なのに・・・。

学校もそうだった、現場の声を聞かずに勝手に「ゆとり教育」なんてものを始めて、すっかり子供達の学力を低下させてしまった。
「格差」というものが好きな閣下のせいでしょうか?この間少しお話した、若いご夫婦の奥様が転院されることが決まって、家族がその支度を始めていた。

自宅がここの病院ではあまりに遠いので、地域連携で見つけてくれた、同じくらい設備の整った病院で治療を続けられるそう。
6人部屋が4人になってしまって、なんだか広くなってしまった。

患者さんの姉妹と思われる人が、てきぱきと荷物を作っていく。
彼女に顔がよく似ている。
最後に彼女は車椅子に乗せられ、下に用意された車に連れて行ってもらう。
ご主人に姉妹と思われる方に、お子さん2人に、お母さん・・・。
彼女は、恵まれた人なのだと思った。

孤独に一人で亡くなる方も、実は近所でも何件か話を聞いた。
高齢者の一人暮らしというやつだ・・・。

私も母も、彼女も、家族に囲まれている。
私たちも恵まれている。

GW、もう少しゆっくりと母の側にいよう。

でもね、ひとつだけ、威張れることがある。
どんなに時間がなくても、マッサージの時間が取れなくても、アロマだけは欠かしていない。
肩やリンパに塗るだけでも、ちゃんとやって帰る!
血糖値に効くという、ラベンダーをたっぷりと首と後頭部にすり込んで帰ってきた。

私が帰った後も、母の体をきっといたわって、守ってくれているはずだから・・・。
今も・・・・。

春の音連れ・・・・

んん・・・・・?
訪れの間違いじゃ?

いえいえ、まあ、いろいろと、春を音で感じるのです。

本当に小さな物音・・・・。
風の音だったり雨の音だったり・・・・でも、明らかに冬の厳しいそれと違って、優しい。

このところ、大好きなモーッツアルトをずっと聴いている。
音楽家ではないので、難しいことは分からないけれどとにかく落ち着く。
モーッツアルトは優れた音楽職人だと思う。
「天才」と呼ばれてるけど、映画や小説なんかも見たり読んだりしたけど、絶対、本人にはその自覚なんてなかったと思う・・・それだから「天才」なんじゃないかな?
「天才」ということを一番分かってたのは、サリエリかな・・・だから脅威を感じ、天才ではないから、自分のプライドを傷つけられてしまうのだね。私がモーッツアルトを好きなのは、昔はよく分からなかったけど、今は「職人」だからと思う。
たくさんの曲を、機械的に、かなりなレベルで作り出すことが出来るのなんて、「職人」以外の何者でもない。
人から求められれば、求められたとおりのものを、いくらでも作り出せた。
それがモーッツアルトのすごいところだ。
これから出るか出ないか分からないくらい、極上の音楽職人だと私は思う。

ベートーベンも嫌いじゃないけど、自分が弱ってる時には演奏するのも、聴くのも嫌。
ものすごくエネルギーを吸い取られる感じがする。
「芸術家+努力家」だから、扱いが大変なんだと思う。
こちらがかなりなポテンシャルを保ってる時でないと、この人の曲って、難しい。
それほど、パッショネートな人だったんだと思う。
怒れる時は怒りに任せて、悲しい時は悲しさに任せて音楽で表現するから、自分の体をこの人の音楽が通り過ぎる時、そんな感情を呼び起こされて、そのボルテージまで引き上げられてしまうから、いくら「ゆっくりさせてよ~」と抗ったところで、無駄。
くたくたになってしまう感がぬぐえない。
元気な時に、あるいは、失恋なんかして、とことん落込みたいときに聴きたいと思う。

あと、苦手なのはバッハ・・・。
この人のは、聴くにはいいけど、演奏は絶対したくない。
永遠の三連譜(笑)が何ページも続き始めると、こなすことに神経を使いすぎて、一向に楽しくならない。
とてもうまく演奏してる人を見るたび、「アンタはえらい!」って思ってしまう。
だって、何回弾いたかわかんないけど、繰り返し繰り返し弾いて、正確に刻むリズムの中でようやく、本質にたどり着いたんだと思うから・・・。
技術的に、私は苦手だ・・・・。
日本でイマイチ人気がないのは、ぜったい、そのせいだと思う・・・・・。
弾きこなせても、人前で披露したい・・・・とはあまり思わなかったものなあ・・・・。
やっぱり、メロデイのある曲のほうがなじみやすいもんね・・・。

リストなんて、ソナチネ程度の私の腕じゃ、テクニカル的に全然無理だしね。
楽譜見ただけで、めまいを起こします(笑)。
でも、これは、聴くにはいいなあ・・・・。
自信満々の人だったに違いないよね・・・・。
どうだどうだ、俺みたいに弾けるか?なんて思いながら作曲してたのかな?
割と関西系の人だったのかもしれない・・・。

まあまあ、各作曲家にいろいろな思いはあるけれど、だから、何が好き?って聴かれると、ホント、ありきたりかもしれないけど、モーッツアルトになってしまう。

繰り返し繰り返し、聴いている・・・・。
繰り返し聴いても色あせない、新しい発見さえある。
どんな魔法をかけているのか・・・。
職人の隠し味にただただ驚嘆する。

久し振りにピアノを弾いてみようか。

2週間過ぎて・・・・

だいぶ、容態が落ち着いた。
一通り、知人からも電話があり、「今はお見舞いご遠慮願います」と話し・・・・ごたごたの2週間だった。

でも、悪いところ、回復が望めない部分もクリアになってきた。
一番皮肉なのは、「認知症」。

母から、思い出も、身内も、友人も、そして未来も、すべて奪い去った。
母にあるのは、「今」だけだ・・・。
これから先、あるいは、少しはましになるかもしれないが、母の生きてきた60数年の一体どれくらいが残るのだろう。
限りなく0に近いパセンテジを突きつけられる。

ただ、体の感覚には、かなり期待が出来るものもある。
随分、座っていられるようになったし、難しかった「嚥下」(えんげ・飲み下すこと)がうまく出来るようになって、ストローでなら水分を取ることが出来るようになった。
もう、点滴ばかりに頼らなくても、水分補給が出来るので、点滴の時間が(小さなサイズになったので)ぐっと短くなった。
短くなった分、リハビリの時間が増えて、ますます手や他の箇所は動き始めた・・・スムーズに。

「今」しかない母ならば、その「今」を、できるだけ快適に、過ごしやすくしてあげなくてはならないのだと思うから・・・・。

暴れたり、わがままを言う患者ではない。
人がいなければ、下をうつむいていたり、自分の手や足を見つめていたりする・・・。
自分と他人、他人と自分という個体の差を果たして分かっているのかも実のところ分からないが、手を握るのは好きなようだ。
それで、「差」を「違い」を理解しているようだ。

今日は、随分私の顔をじっと見つめていた。
本当は分かっているのかな?と思うくらい真剣に見ていた。
何か引っかかるのかな・・・・自分の娘の顔は。

今はそれくらいでいいや・・・少しずつでも思い出せれば、ゆっくりとしたペースで・・・・。

そして、アロマを施して、今日も洗濯物を持って帰る。
毎日毎日、「今」だけを生きる母は、私たち、過去を引きずってる人には見えない何かを見ているのかもしれない。
母にしか分からない世界を、隣りあわせで、私も見つめなくてはならなくなった。
見つめて見つめて、でも、私には見えない刹那なのかもしれない。
今は、手だけでつながっている母と娘だけれど、時間がゆっくり過ぎれば、もう少し、なにか、つながりが思い出せるか、新たに構築できるかもしれない。
そう言う日を信じて行きたいとまた心の底にそっと刻み付ける・・・。

下の世話というもの

これって、大変。
今日、初めて、やってみたのだけど、一人ではかなり困難な作業だと分かる。

病院ではスタッフが2人でペアになってやっている。
一人が腰を支え、もう一人が汚物を処理し、その間に腰を支えている方がささっとおしりやその周囲をきれいに拭く。
拭いている間に、もう一人が新しいオムツを用意し、腰を下ろす頃には、いいポジションにそれをきちんと敷いて、そっと元に戻す。
お尻拭きや、オムツを置くポジションや、タイミングは本当にプロ。
鮮やかだ。
何人も、何十人も、何百人もの人達にそうしてきたのだということが、その鮮やかな手つきで分かる。
最短の時間で、最大の効果をあげつつ、自分達のダメージは最小・・・。
私は、最長の時間でとろとろ下手なやり方で、たくさんの手間をかけた割には、自分がとても疲れてしまうという最悪のパターンだ。

とにもかくにも、この作業を、一人でやるのはかなり大変で、多分、ずっとやっていると、私の性も根も尽き果てるのだろうと想像できる。
母に苦痛を与えながら、自分にもダメージを与えつつ、日に何度かこの作業をしなくてはならないのだろう・・・。

だから作業療法士や、物理療法士の先生は、母を座らせることが出来るように、リハビリを続ける。
言語療法士の先生は「YES」「NO」をせめて言える様に繰り返し促す・・・。結局は、トイレが出来て、自分で便座に座れるようにすることが、私のかなりな部分の苦痛を取り除き、母の最期の自尊心を守ることになることをよく分かっているのだ・・・。

母は、「赤ちゃんのように」なってしまったけれど、「赤ちゃん」ではない。
だから、大人の人間としての尊厳があるのだ。
下の世話は、簡単ではないし、ラクでもない。
それを娘にされてしまうということは、たとえ、今、それが母に理解できないことでも、どこか、本能的な部分で、なにか引っかかってるのかもしれない。

そして、気づいたスタッフの人が、ビデをもって来てくれた。
陰部をきれいにするために・・・。
寝たきりの人は、オムツを使うから、蒸れて、女性の場合、膣炎や尿道炎・膀胱炎になる人も多いのだそうだ。
医療用は、本当に気が効いていて、すっかりきれいになる。
「これね、座れるようになれば、簡易トイレでも使えるの。すける容器が要らなくなるから、外に散ったり、シーツを塗らすこともないから、そうなればラクなのよ」
そのとおりだと思った。

母の最低限のプライドを守るためのリハビリはまだまだ続く。

最後に看護士さんに励まされる。
「病院にいる時くらい、家族は何もしなくていいのよ。しちゃだめよ。今からしてたら、つかれちゃうから。行政でもなんでも利用して、家族は、出来るだけ、こういうことをしないですむ方法を考えるのが仕事よ!」

お言葉に甘えさせてもらう・・・次回からナースコールを押すことを約束して、母をお任せする。
そして、また、いろいろと考えることにする。

「家族が出来るだけしないですむ方法」
言いえて妙だ。

ひとつでも、疲れを残さないで済む方法を模索することが、大切なのかもしれない。
疲れは、いずれ溜まる・・・溜まれば、愛する家族でも憎しみさえ沸くことがあるのだ。
人の心は、自分でもどうしようも出来ないこともある。

今日の看護士さんの言葉は心に刺さった・・・。

きっと、疲れ果てた家族を何組も見てきたのだろう。
あるいは、最初は私のように元気に振舞っていた人が、疲れきっていく様も・・・。
大切にしなくてはならないと思っていたはずなのに、いつかぞんざいに扱ってしまって自己嫌悪に陥ったりするのかもしれない。
そんなことを、さらりと見切って声をかけてくれた看護士さんに感謝する。

介護って、一人で出来るもんじゃあない。

たくさんの人に頼り、支えられ、そうしてやっていくもんなんだ。
自分で抱え込んじゃだめなんだな・・・・。
気づいたら、少し、気持ちが小さくなっていた私がいた・・・。
外へ気持ちを向けよう、そして進もう。
介護は、一人で何とかできるもんじゃないんだから。

もうすぐ2週間

かなり、母はがんばっている。
波はあるけれど、時々、人の顔が分かるようだ。
近親者だからと言って、一番に思い出すわけではないけど、親戚のおばちゃんの顔に反応があった。
その部分は脳が助かっていたんだね。
よかった。
誰か一人でも存在を思い出せば、一人ぼっちじゃないってこと、わかるから。
ありがとう、おばちゃん!
おっきな声で話しかけてくれて。
母のために泣いてもくれて・・・・。

最初は動かない右半分の唇からぼろぼろこぼれていた食事も、スプーンを変えたり、リハビリのおかげで、随分こぼさなくなった。
そうだなあ・・・・2歳児のぐっちゃぐちゃの食べ方が、3歳児に近づいたと言う感じかな・・・?
もう、数日中に刻み食(今はどろどろのペースト状食)に変わるということだ。
最初は、嚥下が下手で、よくむせていたのだけど、それもほぼなくなったので、だんだん美味しい食事に変わって行く。
リハビリの成果で、少しの間は座位が保てるようになったので、背筋を伸ばして食事が出来るのだ。だからむせないし、いいポイントで腕を使えるからこぼさない。

血糖値がまだ落ち着かず、インシュリンを打たれているけど、脳が落ち着いてくれば、食事療法でいけるのではと医師から言われる。めちゃくちゃ高いわけではないのだけど、今の母には命取りだから投与が続いているというのが正解。ものを食べると言うことを、ずっと何も考えなかったけれど、これほどまでに体って、複雑な動きをしてるんだなあ・・・と思う。
たったひとさじ、ゼリーをうまくすくえなかった母が、すでに、おかず2品、おかゆ、お汁、デザート、お茶ゼリー、これらすべてを上手に平らげられるようになった。
まだ、ペースト状とはいえ・・・・。

そんなことがとてもうれしい娘。
私はやはり単純です。

無理な体勢でいろいろこなす母は、左肩が随分凝ってるのよ、と理学療法士の先生と、見習いの若い女の子が教えてくれる。
今日の夜は、肩こりに効くマッサージオイルをブレンドしようと心に決めて、食事の終わった母にマッサージをする。
どちらの手も3分ずつ位の簡単なマッサージだけど、香りに誘われて、看護士さん(若い女性)がやってくる。

「○○さんが、いつもいいにおいがしてるのはこれなのね」
と、一人の、初めて会った看護士さんのほうが話しかけてくれる。

ついつい、アロマから、ナチュクリ自慢とCPPの紹介をして名刺まで渡しちゃったよ(^_^;)
なぜかこんなシーンで、ナチュクリ啓蒙・・・。
つまりは、やっぱり生活にすっかり溶け込んでるってことなんだね!

でも、歯磨き剤(重曹&グリセリン)の内容を聞いて、「飲み込んじゃう方も多いから、こんなに安全ならいいですね~」と、私に話しかけてくれる。
やはり、病院が病院(脳神経外科専門)なだけに、そういう状態を余儀なくされる患者さんも多いのだ。

小さな出会いを大切に、お母さん、ステキなスタッフの方ばかりでよかったね。
さて、HPに遊びにきてくれるといいな、と思いつつ、今日も病院を後にする。

病室で、泣いたのは2日目だけ。
あとはもう、自分で言うのもなんだけど、ずっと笑顔でにっこにこでおかあさんの側にいる私なのだ。
だからかな、スタッフの人も話しかけやすいらしくて、私には今日もそうだけど、気軽に話しかけてくれる。
(まさか、重曹の話をするとは思ってなかったけどね)

まあね、私も考えたんだけど、泣いたって恨んだって、物事は変わりはしない。
だったら、笑顔で楽しく、どんな小さなことも見逃さずに楽しみを見つけたもん勝ちなんだよね。
だから、今日もそうしてみた。

泣きたくなったら思いっきり、その時は泣くぞおー!
でも、どうやら腹が据わったらしい。
泣こうにも、涙が出ない。笑顔は出るのにね。
さあ、ブログでいい報告できるように、また、どうすれば良いか、考えよう。
毎日がんばってるお母さんのためにね!

意外な攻撃と防御を考える・・・

いるものなんだな・・・・やっぱ、はらわた煮えくり返る人というのは・・・。

今日は随分な言葉を聞いて、おばあちゃんがショックを受けた。

うちの母はおしゃべり好きだった。一言で言うと「サザエさん」みたいな感じだった。
そこがうちの父には気に入らなかったようなのだけど、まあ、そういう母だった。
にぎやかで、少々考えが浅い(おお、さすが私の母!)ところがあるけど、さほど嫌味なところはない。
裏のない人だった。(私と同じ、単純な人間よ~)

その母が、言語中枢を痛め、話せなくなったことに対して

「あんまり喋っていたから、神様が喋れなくしたのだ。あなたもおしゃべりが過ぎるとああなるよ」と、○○さんに私は言われた・・・・。

と、こんな意味合いのことを、讃岐弁で語るわけなのだ。
「あんまりしゃべっじょったけん、かみさんがしゃべれんようにしたんで。あんたもあんまりしゃべっじょったらあなんなるでぇ」(県外人には意味不明だね、こりゃ・・・)私は、わりとそう言うことを言われても平気なのだけど、おばあちゃんはそうは行かなくて、精神的にショックを受けてしまった。
まあ、それをわざわざ当事者の家の人に言う人もどうかと思うんだけどね・・・・。
だから、私はその人にも腹が立った。

でも、人の不幸が蜜の味って人は本当にいるのだなあ・・・としみじみなんとかわいそうな人達だろうと思う。
そう言う人達に、本当の友達や心を許せる人が周囲にいるとは思えないからだ。

また、もう一人、しつっこくお見舞いに行きたいと懇願する人がいる。
勿論、善意ではなく、晒し者的に母を見るためなのだけど・・・。
以前もご近所で入院された方のことを面白おかしく語ってられた・・・・。
そんなことを話すための場所ではないところで・・・。
私がたまらず、いぶかしい表情をすると、ますます大きな声で、こちらに向き直って話すのだからたまらない。
「管が何本もひっついとってな、もう、おしっこのパックもついとった。もうあれは長うないな・・・・云々・・・」
そんなことを平気で人前で話す。
(あ、でも、話されていた当人は元気に退院してきたけどね。今もよくわんこのお散歩で会います!)

私はこそっと携帯をいじってアラームを鳴らし、いかにも今電話がかかってきました的なふりをして席を外し、次にそこに戻った時には、別の席に着いた。
それほど嫌なタイプの人だった。
私から見れば、入院してる方達より、あなたのほうがよほど珍しい生物ですけどね・・・お気づきではないようですけど・・・・夫婦揃って、すばらしい生き方です。

そんなに見たければ見に行けばいい。
家族の私たちの制止を振り切って。
そして、どんなに惨めか、どんなに悲しい状態かを面白おかしく語ればいい。

私は、全然、そんなことには負けない。
私の目には、懸命リハビリをして、自分と、病気と戦ってる母を惨めとも悲しいとも思わない。
そんな母を手助けし、少しでも良くなってもらって、生きてる喜びを味わって欲しいと思っている。
母は、そういう子供達に私たちを育てたのだ。
「困ってる人は手助けしてあげなさい」
よくそう言っていた。
私が困っている時も、お母さんもおばあちゃんも、よく助けてくれた。
だから、今度は私が助けたいと、ただ純粋に思っただけなのだ。
でもなあ・・・おばあちゃんはショックなんだろうな・・。
どうやって慰めようかと、心が痛む。

心無い人が隣に住んでるってのは、なかなかに油断できない。その人たちのコミュニテイ自体もババ色なので、本当に参る。
常に、人の噂話に花を咲かせているので、もう、私にはまるっきりついていけない世界なのよ・・・正直・・・。
以前、一度、地域のイベントで一緒に料理を作ることになって、実際作ってたんだけど、「あんたのところのご主人の仕事はなんな?社長さんなんやろ?なにしょんな?」
「さあ、家で仕事の話なんてしないんで」
「あんたもなんかえらい仕事しょんやろ?夫婦でいそがしいんな?」
・・・という感じで、常に何事かを聞き出そうとしている。

ここに越してきてからしばらくは、私はよく徹夜で原稿を書いていたり、主人の帰りが明け方と言うこともあった為、近いうちに離婚するとか、子供がグレて、どうしようもない家庭になると噂されていたらしい。

まあ、私は結婚も遅かったので、それもいろいろ言われていたし、したらしたで、腰が細いから子供は産めないとか、産んだら産んだで、男ばかりで、女が産めていない、バランスが悪いと、こう来るのでやってられない。
他人んちの家族計画はほっといて欲しいものだ・・・。
国政ならぬ、家庭内干渉はいかがなものかなあ・・・。

私のようにすっぱり無視して「私は私」と言えれば問題ないんだけど、それが出来ない年代なんだよね、おばあちゃんって・・・・。

どこかに書いたように、環境は最高。
住んでる人の何人かは???な地域です、ここって。
でも、そんなにも、絵に描いたように珍しい人がいるので、サファリパーク的に見に来たい方はどうぞ。

さてさて、また何か美味しいスープでも作って、子供達とおばあちゃんとで食べよう。
そうすれば、元気もでるかな?