微妙な固さ加減

母の食事は劇的に変わった。
とろみ食から、(要するに離乳食な感じね・・・・・)刻み食に・・・そしてかなり大きな刻み食になった。

顎がすっかりやせてしまって、今まで使っていた入れ歯は使用できなくなっていた。
来週は歯医者さんに訪問診療をお願いしているから、入れ歯が適合すれば、普通食も食べられるのでますます元気になると思うのだ。

今日の母は、リアクションをひとつ覚えた。

口の周りをやたら触る。何のリアクションか、意味が分からなくて、一気に思考ネットワークを広げた。

そういえば、さっきリハビリの先生が午前中、一生懸命やったという話をしてくれた。

もしかして・・・?

「喉かわいた?」
でも、言葉での意味は通じなくて、急須とコップを持ち上げて母に見せる。

すると、うなずいた。
でも、ここからが一苦労。

母は、まだ、ダイレクトに水分を摂ってはいけない。
もう、ゼリーほど硬くなくてもいいけど、とろみをつけなくてはならないのだ。
そういう患者のために、「とろみスティック」というものがあって(なんて便利な世の中なんだ!)、それを適量、飲み物に混ぜるだけだ。
ちょうど、シュガースティックのようになっている。
でも、当然、入れすぎるとどろどろになって、飲み物ではなく食べ物になってしまう。
それに、入れたらすぐ混ぜないと、だまだまになる。
・・・・ということを今日学んだのだけど、そのへんのカンは、使わないと分からない。

母の適量の固さは「ハチミツとミルクの中間」・・・まあ、ネクターくらいが丁度ということだ。
これって、結構難しい。

結果、3杯飲んだのだけど、さすがに3杯目には、私も、この白い粉をそこそこ扱えるようになっていた。
とっても喉が渇いていたらしく、飲み終えると、「ふー」と大きく息をして、とっても美味しかったと表現した。

4杯目は、もう要らないというジェスチャーらしきものをしたので、このへんでやめておいた。

いつものように、マッサージを軽くして、シーツにたらたらっと精油を垂らし。
そして、今日の洗濯物を持って帰った。

「バイバイ」も、手を合わせれば出来るようになった。
これは昨日から・・・・・。
でも、昨日よりもずっとスムーズに・・・・。

明日も、今日よりも、ほんの少しでも前進していて欲しい。
ほんの少しでいい、前進は、でも、確実に健康に・・・。

アロマ報告その2

「○○さんが来てくれるの、楽しみなんだよね」
と、言ってくれたのは看護士さん。
(※○○さんって、のんちゃんのことです!(^_^)v)

それは、私が母にマッサージをし、エッセンシャルオイルの香りを振りまいていくから。

同じ病室に3日ほど前から入院している方もそう言ってくれる。
気持ちがいいのだそうだ。
看護士さんの中に花粉症の方がいて、この母の病室に入っていい香りがするなーと思うと、鼻が通って、しゃきっとするんだそうで・・・・。
おかげで、母の病室は6人部屋なのに、食事時やリハビリ休憩時なんかも、他の病室からも2人ご遠征されて、看護士さんも(特に女性は)たださっと看るだけではなく、しょっちゅう足を止めてくれる。
他の病室と空気が違うようなのだ。

この病院って、とても清潔。いわゆる、尿臭のようなものがほとんどしない。窓も大きくとっていて明るいし、風が良く抜けるので空気がよどまないのだ。

色々な病院に行った事があるけれど、ここはかなりいい状態の病院といえると思う。
看護士さん自体も、「臭いって慣れがあるから恐いのよね、目で看てわかる汚れは掃除したり片付けたりするけど、臭いって、慣れてしまうから、外から入ってきた時だけしか気付かないのよね。」
と言っていた。
臭いはずなのに、臭いと気付かなくなる・・・それが良くないのだと言う・・・・。

ところが、この病室に来ると、リセットされるそうで、思わず空気を吸い込んでしまうと言うことだ。
この病室を抜けて、次の病室に行くと、違いが分かるそうで、だから、ただ巡視するだけでなく、立ち止まる。
立ち止まるから一声が二声、三声になって患者さんにかけられる。
声をかけてもらえるきっかけがあるから、刺激にもなる。
刺激を他の患者さんよりたくさんもらえるから良くなるスピードも速い。
スピードが速いから、スタッフの人もより熱心にしてくれる・・・・そんなことなのだと思う。

一つ一つはほんの小さな可能性だったりアクションだったり・・・・。
でも、こうして書き出していると、とても大きなパワーに発展していくのが確認できる。

逆ならどうだろう・・・・?
そう考えれば、明らかではないか?

そうやって、エッセンシャルオイルは、香っている間は当然ながら、人の臭覚にひっからなくなっても、じわじわと、殺菌や制菌、そのほかの持っている効果を体の中や外で発揮し続けてくれているのだと思う。
 母のベッドパッドやタオルにも垂らし、常に母が守られるように処置して帰っているから。
ここの病院は、そういったことを許してくれる。

母のリハビリ用の服にはこの精油、パジャマはこちらと、用途別に垂らして持っていくようになった。

いろいろと、やってあげられることはあるものなのだ。
これからも、また、処方しながら、しっかりと母を見つめ、のんちゃんレポートをしていこうと思う。

決して現実から目をそむけないために。

アロマの効能

母の回復は、早期リハビリと、スタッフの人や先生達の力はとても大きいと思う。
助かった能力を最大限救ってくれたから、孫を見て思い出したり、自分の名前も言えるようになった。

でも、もうひとつ、アロマの効果も侮れないと私は思っている。
ほぼ毎日、ラベンダーと何かを組み合わせて母に処方してきた。
ラベンダーが万能で使いやすいのもあるけれど、母の好きな香りなので・・・・。

嚥下がうまくできない時は、食事の後、喉が痛むと思ってスッキリ通る組み合わせで・・・・作業療法や理学療法の時間が長くなった時は筋肉や関節を柔らかく動かせるように。
動かないほうの手には、血流を良くするものを・・・・。

こういうものの力は、派手に働かないけれど、でも、寝てる間もずっと母の体を守ってくれていたに違いない。アロマがすべて、とか、そういう偏った思い込みは良くないけれど、(あまり極端だとね・・・・^_^;)

でも、この知識を持っているとそうでないとでは、随分違っているんじゃないかと思う・・・・。
もし、知らなかったら私は母に触れることもなく、ただただ悲しみながら、遠くから見つめているだけだったのじゃないかと思うのだ。
でも、毎日マッサージをしながら、母と触れ合い、香りで自分も一緒に癒されていたのだと思う。
母のためだと思うから続けられた。

そう言う意味ではボランテイアや仕事もそうかもしれない・・・。
だれかの役に立つことがうれしいから続けられる、回り回って自分の知識が増え、気がつけば、周りに支えられている。
自分のためだけだったらなかなか続かないと思うのだ。
私ががんばってるのではなく、がんばらせてもらえている・・・・・そんなことに今まで気付かなかった間抜けな自分が情けない。

アロマに限らず、正しい知識を積み重ね、明日の自分につなげていこう。

分かった日

平成18年5月11日

この日をメモっておこう。

なぜなら、母が私の名前を呼んだから。
ちゃんと分かって、自分の名前も言い、私も呼んだから。

なんとすごいことなのか・・・。
GW中は、言語の先生にももしかしたらだめかもしれない・・・・と言われていた母・・・。

発語さえできなかった母が、私の名前を呼んだのだ。

今日は、午後、病院から母が急変したとの連絡を受けて、病院へ急ぎ向かう。もしかしたらもしかする・・・・・。
恐怖と覚悟・・・・。
所在無い不安やそんなものが一気に押し寄せて、車のハンドルを握る手も震えた・・・・。

過呼吸になって、発作のようなものをおこしたと言う説明があった。
レントゲンやそのほかの検査は速やかに行われ、異常なしとの結果に胸をなでおろす・・・。
そんなこんなでばたばたしているうちに、夕食の時間。

食べ始めた母を見ながら、担当の看護士さんや、先生とも「さっきのはなんだったのかしら」と話していた・・。

ほとんど食べ終えた母が機嫌がよさそうだったので
「お母さん、歌歌ったんだってね、聞きたかったなあ」と話しかけると、実に恥ずかしそうにうつむく・・・。
今までとは違うリアクションに
「お母さんの名前、思い出した?」

すると口をゆっくり開けて、なにかもごもご言おうとしている。
名前の最初の言葉を私が口で作ると、母も同じように作った。
そして、ゆっくり、自分の名前を発音した。

まさか???分かるの????

私が自分を指差して「私、だれか分かる?」
すると、またゆっくり私の名前を発音した。
そこにいたスタッフ4名くらいがすぐに来てくれて、もう一度母に聞く・・・。
「ね、○○さん、名前、言えるの?もう一度言ってみて」

すると、母は、さっきよりずっとはっきりと自分の名前を喋った。

わあーと、周囲から歓声が起こった、拍手も・・・・。
母はますます照れた顔をして、さっきよりもうつむいてしまった・・・・。

こちらの言っていること、自分という存在も、だんだんと思い出してきたのだ・・・。何とすごいことか。

昨日のこの時間には、まだ「あ」と「う」が精一杯だったというのに・・・。

私が帰りがけに「この調子で、リハビリがんばってね」と言ったら
「ちょっとずつ・・・」と、言葉を付け足した・・・・。

またまたスタッフ達が「わああ・・・」と歓声を上げる。
一人の言語助手の人がすかさずメモ帳に母の名前を大きく漢字とひらがなで並べて書いてくれて、母に手渡す。
「ほら、これがあなたの名前、ね、○○○○」

母はその紙を持って何度も見つめていた。

「何か言いたいことがあって、それで過呼吸みたいになってしまったのかな・・・・?もどかしかったのかもしれないね、分かってるのに話せないことや、動きたいのに動けないことが・・・」

そのとおりだと思った。

明るい光が見えてきた。
今日は地獄から天国、そんな気分だった。

残像記憶

母が歌を歌った。

と、言っても、ほぼ言葉を失っているから、メロデイを訴えたようだけれど。
言語の先生からそれを聞いて、私も聞きたかったな、とちょっぴり残念。

歌に限らず、次々残っている記憶が表面に現れる。
こういう記憶が残っているうちに、リハビリをすると、その記憶は残る確率が高い。
つまり、脳って、他所にコピーできるようなのだ。
そっくり同じかどうかは別にしても、その記憶をコピーするなんて、脳って、やっぱり侮れない。
特に海馬付近の脳は、高齢になっても細胞を作り出すことが出来るということも最近分かってきたと新聞で読んだ。

だから早期リハビリが大切だといわれ、どういう状況でも、回復の可能性はあるということなのだ。

母は、感情もようやく外に出るようになった。
悲しい顔、笑った顔、照れた顔、そんな母の顔をもう一度見られるとは思ってなかっただけに、面食らうと共に、毎日通うのが苦痛ではなく楽しみに変わった。母の記憶は果たしてどの位残っていて、どんな風に組みなおされているのか?
生きている私でさえ、時々記憶違いがあるというのに、脳を破壊された母は、どんな感じになってるのだろう。

でも、それもこれも、前進していくしかなくて、止めてしまいたくなくて、ただただ、母をリハビリに突き動かす。

今までと違う母、ということは頭で分かっていても、今までの感覚が、この違う母をそのまま受け止められない。
私も、リハビリ?エクササイズ?をずっとしている。
ずっと戸惑っている。

でも、看護士さんによれば、わりと私は順応力のあるほうなんだそうだ。
一部、変わってしまった家族をうまく受け入れられなくて、どちらも辛い思いを噛みしめてしまう方たちも決して少なくないのだという・・・。
お互い大切な家族なのに、うまく関係を築けなくなるのは悲しいことだ。
きっと私を元気付けようと看護士さんは話してくれたんだと思う。
少し、気持ちが軽くなりました。
そう、私は元通りの母でなくても受け止める為の準備を一生懸命やればいいのだ。
今はとにかく必死。

歌でもいい、動作でもいい、母が前に進む度、こちらも足並みを揃えなくてはならない。
毎日がスタートラインだ。

母の爪を切りながら、伸びた爪の分だけ、時間が過ぎたことを思う。
今日は足の爪。
動かないほうの足には苦労したけど、なんとかやり遂げた。
母のためにしてあげられることが、ほんの少しだけ増えた。
そんな日だった。

急転直下

介護認定が終わり、ケアマネさんとのお話も終わって帰ろうと、もう一度母の部屋を覗いたら、そこにリハビリの先生が登場。

多分、一般的だと思うのだけど、脳梗塞で母のようになってしまった場合、理学療法・作業療法・言語療法の3つが早急に行われる。

その中の、作業療法士の先生(若くて美人なの~(^^♪)が今ちょっと良いですか?と・・・・。

なんだろうと立ち止まり、話を聞くことに・・・・。
実は、この3日間で突然目に見えて回復が目覚しい母のこと・・・・。

このまま施設で通院にしてしまうと、折角回復している機能が退化したり、せっかく延びようとしている部分がおじゃんになってしまうこともあるということだった。

実は、私も合間を見て、脳梗塞の勉強はしていた。
最初の3ヶ月から6ヶ月が特に重要で、この時期に回復する部分は著しく元に戻ろうとするのだ。
6ヶ月から1年くらいで大体落ち着いて、そこからは定着状態になる。
それからも回復が望める部分もあるが、緩やかな伸びに変わる・・・。

だが、この病院の隣にある、リハビリ専用の病院に入院するには、付き添いが必要になる・・・。
仕事もある私は、ずっと母に付き添うことは出来ない。
その病院が優れた病院だということは分かっているし、今、この病院にいるから容易く入ることが可能だけれども、外から入るのはかなり困難な人気の(?)病院だということも充分知っている。
リハビリが優れているから、社会復帰率も、自宅や施設に帰る場合も、かなり良い状態まで戻っているパセンテジが高いのだ。

ヘルパーを頼んだことのある人はいるだろうか?
私はある・・・。
主人の父が(問題行動があって目離しができない為)24時間介護を家族の人でお願いしますと言われた時、最初は家族でローテーションを組んだけれど、やがて疲れ果て、(当時、義父は昼夜逆転を発症していて、夜は一睡もしなかった・・・)ヘルパーを頼んだ・・・・。
1日、約15000円(交通費・紹介料含む)・・・・それが実費なのだ。
さすがに長くは頼めないから、数日、家族が充分睡眠をとり、家の中の雑用を片付ける間、お願いをした。
もともと看護士さんだったから、仕事ぶりは完璧で、文句は全然なかったが、やはり、庶民がずっと頼み続けられる金額ではなかった・・・・。

先生のお話によれば、母は、問題行動もなく、大人しく、しかも、リハビリも熱心なので、昼間の付き添いは不要ということだった。
だが、母の介護が出来るのは、家族で私一人だ・・・。
母の夜を見ると、オムツを3回ほど替えるのみで、あとは大丈夫ということだった。
だとすれば、夕方から夜12時もしくは2時くらいまで付き添って帰宅をするということを許してくれれば可能ということだ。(どうせいつも夜遅い・・・)

しかも、3ヶ月の間という限られた期間だけ・・・・。
看護士さんたちに相談をして、それが可能か確認中だ。
もし許されれば、母は、このまま格段にいい方向に回復が出来るし、その間の医療費は高額医療ということで3ヵ月後に9割がた帰ってくる。
施設も、今は一杯だけれど、3ヵ月後はもう少し空いてくることだろう。
母は、恐らく介護度が高いので、優先順位を先にしてくれることは間違いがない。

もし、夜中途中で帰宅さえ許可が降りれば、しばらくは忙殺されるけれど、最初に思っていたよりはいい結果を得ることができるのだ。
だから、この一筋の希望に望みを託す。
それが今日の少しうれしい、急転直下な話。

平成5月10日11時の約束

母の介護度を認定する日。
約束の時間、約束の病室に市の担当職員到着。

何を聞かれるか大体のところは分かっていたから、てきぱきと答える。
実は、数年前、主人の父が同じく急に脳梗塞で倒れたので、ほぼ同じルートを歩いているから、慣れているといったほうがいいかもしれない。

現在の彼女の運動能力、可能範囲、そして認知度の程度。
合併症について、そのほか食事や投薬についてなど、現在受けている治療なども事細かに。
こういう仕事をしている人に対して、別に憎しみは沸かないが、かなり、プライベートなことも聞かれること、そして、身体状態の確認に母の体を触ること、こういうことに軽い嫌悪感を覚える。

医師や看護士に腹は立たないのに・・・・。

それは、多分、医師や看護士といった人達は、母の治療をしてくれている。少しでも良くなるための、あるいは悪くならない為の処置を施してくれているのに対して、認定をする側は、モルモットのように扱うからだと思う。

動きにくい関節を無理に曲げたり、また、動かないほうの足を持ち上げたりする・・・・そこには正直、口ばかりで優しさがまるで感じられない・・・当たり前といえば当たり前で、そこには「任務遂行」としか感じられない雰囲気が存在している。
無論、理性の部分で納得はしているから、従うけれど、いくら頭で理解していてもハートの部分が拒むことってあるものだ。

これは主人の父のときにも感じた。
実の父でなくてさえ、そう感じてしまうこと・・・私だけなのだろうか・・・。
いくら担当の人が気を使って話を進めていても、笑顔で接してくれても、ざらっとした摩擦のある繊維で不意に顔をなでられるような感覚にいつも陥る。

私も負けずに、笑顔ではきはきと接し、相手の求めに応じて答えを返すが、結局、担当者はいつも看護士やまたは医師に本当かを確認しに行く。
まるで、私がうそでもついているかのように・・・。
ここでも、居心地の悪い違和感を感じてしまう。
私の言うことを信じられないなら、最初から医師や看護士の意見を先に聞けばいい・・・この制度は、何かおかしいといつも考えさせられる。

素直に税金を納め、ずるいこともせずに生きてきた人間が、不意に起こった不幸なことによって、行政の力を借りなくてはやっていけなくなって、当然の権利を主張しようとすると、途端にたくさんの壁が立ちはだかって、邪魔をする。
主張を出来なくなった本人に代わって、家族が遂行しようとしても、とても面倒と感じさせる。いつもの私の考えすぎ?または空想?なのかな・・・?

でも、それとばかりはいえないと思う。

人と接する仕事は、細心に細心を重ね、デリケートな問題にはそれ相当の注意をもっと払うべきだ。

この方法は、正直、「晒し者」か「モルモット」と感じる人が多いのではないかと思う。
でも、あまりのことに動転していて、そんなことさえ感じなかったりする人が多いのだろうか・・・?

母は、病人であり、いたわられるべき人なのに、そうは決して感じない数十分が過ぎる。

無理に車椅子を操作させられ、耳の横で手を鳴らされ、耳が聞こえるかを確認させられる。
目の前に指を一本立てられ、無理だというのに数を数えろと言われる・・・。数えられないと、はい、数えられませんね、で終わり。
出来る出来ない、出来る出来ない・・・・ただひたすら、それだけを確認する・・・・。

やっと開放してもらった母は、お昼ご飯。

私は、福祉施設のケアマネージャーさんと、入所の手続きでお話しをする。(なんと、立会いに来てくれていたのだ・・・・)
いろいろとお話と事情を聞いていただき、入所の申し込みを書いて取り急ぎお渡しする。

少ないけれど、入所60人待ち・・・・。
他は、この倍も3倍も待たなくてはならない。

今回は田舎であることに少し安堵感を持つ。