梅雨のないクニに降り立った。
風はさらりと冷たく、
リネンの肌触り。
朝、空港の駐車場に車をすべり込ませたとき、
後部座席に上着を置いたまま忘れた。
夕方になると、
歯を剥くかもしれない。
寒さの予感に少し後悔する。
駅前から延びる道路のすぐ先に、
赤い屋根のウイスキー工場が見えて、
旅の一行は沸き立つ。
創業者は自らの学びの地、
スコットランドによく似た風土から、
この土地に工場設立を決意したという。
大麦をピート(泥炭)で燻す小屋、
大きな蒸留装置が熱せられ、冷やされ、
カン…カン…と絶え間なく、
あちこちで不思議な音を立てる小屋、
今はティールームになっている研究室、
などなど。
ひととおり敷地内を見学したあとで、
試飲できる部屋に案内される。
ウイスキーの原酒は、
樽(カスク)ごとに異なる風味を持つ。
その代表的なものを揃えました。
そう言って私たちの前には、
色も香りもそれぞれに個性的な、
5つのシングルカスク瓶が並べられた。
Fruity &Rich
Peaty & Salty
Sherry & Sweet
Soft & Dry
Woody & Vanillic
どれも、これまでに飲んだことのない、
衝撃的な美味だった。
いつもは苦手で避けているウイスキーを、
一番喜んで飲んでいる、と笑われたが、
こんなにおいしいものだとは知らなかったのだ。
中でも、Peaty & Saltyのカスクに惹かれた。
すると支配人はにっこり。
だと思いましたよ。
だいたい、その方を見れば、
どのカスクをお好きか、わかるのです。
あなたはそう、Peaty & Saltyだと思いましたよ。
あときっと、Woody & Vanillicもお気に召すと思います。
まるでウイスキー占い。
体質で好みがわかるのかしら。
支配人の言う通り、木とヴァニラの暖かく、
高貴な香りのするカスクも気に入った。
でもやっぱりピートと塩の重い香り、
これが一番好きだなあ。
それはこの土地の最も特徴的なテイストで、
石狩の泥炭と日本海の潮風が織りなす、
長い長い時の魔法だ、と支配人は言った。
目からウロコのウイスキー体験。
工場を去ったあとも、
長い間香りに包まれていて、
寒くても、体の芯が温かかった。
翌朝、着替えようとして気づいた。
昨日の工場見学の間、
手提げかばんの中に入っていた服。
とても小さく折りたたんであったのに、
かすかにピートの匂いがする。
凍える空と荒れる海。
そこに生きるケルトの人々が魂と呼んだ、
生命の水(ウイスキー)の豊饒さは、
訪れた者をすみずみまで満たし、
静かでしなやかな力をくれる。
しばし目を閉じ、大きく息をする朝だった。