オボのこと。

ヒゲヅラにサングラス。
リスチンチョクトゥ氏は二人分のバスシートに、
少し窮屈そうに体を収め、首に小さな金の札をかけていた。
札は“ちょい悪オヤジ系派手アクセ”ではなく、
彼が行くいろんなところ、フリーパスの証なのだという。

冗談かと思った。
そういう通行手形って本当にあるのか。

国中どこでも出入り自由の金の札は、
世界帝国の時代から、
選ばれた戦士や芸術家に贈られてきた。
チンギスハーンの名のもとに、

 “これを持つ者に最大の待遇を与えよ”

モンゴル文字でそう書いてある。
途方もないマイティパスなのだ。
誰もが夢見る安寧と自由を一生涯保証する。

かつてある詩の大会で優勝し、彼は札を授かった。
しかし実際は大人の片手ほどもある重い大きな金の板で、
それではあまりに持ち運びに不便なので小型のレプリカを作り、
ペンダントにしているのだそうだ。

旅が始まってから、
詩人はずっと寡黙だったけれど、
トイレ休憩でバスの外に出て、
めずらしげに足元の植物や瓦礫を見ている私に、
突然、あの山が見えるか、と聞いた。

頭を上げ、指さす山を見た。
頂になにか石積みのようなものが見えた。

オボというのだ、と彼は言った。
昔からモンゴルの土地のそこかしこにある。
あれは神聖な場所という意味だ。
しかし近頃は金のためなら、
風土に適うかどうかなどまったく顧慮せず、
どこでも開発する輩を抑えるために、
私たちは決して荒らしてほしくない土地に、
あらかじめオボを作るのだ、と。

オボは古くから馬を駆る人々の道しるべであり、
祖先の霊宿る、自然な信仰の対象だった。
なにもない山や草原で、恋人たちは待ち合わせに使う。
あのオボで逢おう、という歌が流行ったこともあるという。

そのこと。

最初に教えていただいて、
強く心に残った。

それからもオボのこと、
たびたび思い出す。

詩人は私の中にも、
ひとつのオボを作ってくれたのだろう。
この先、この地をはるかに離れても、
必ず見つけて戻ることができる、
みずみずしい記憶の道しるべ。

雷雨

明け方の雷雨でレインフォレストの夢を見た。
湿度100%の緑に囲まれ。

そのまま起きて外を眺める。
うす暗い空に何度も稲妻が走る。

丘陵を切り崩し、斜面に立ち並ぶ家々は、
眠っているというより、狙われないよう、
息を殺しているように見える。

ハバナを吹き飛ばしたハリケーンは、
メキシコ湾を抜けて米国ルイジアナ州に向かっているという。
テレビでは、避難命令の出た町はひどく静かで、
ときどき軍用車両が行き交っているのが見えた。

これからはむしろ深刻化する自然災害の手当に、
強大でよく統率されたプロ集団の力が、
必要だと言われるようになるのかもしれない。
たとえば軍隊なども。

きついアイロニーだなあ、と思う。
平和は人間社会の取り決めだけで出来上がるのではなく、
自然環境がおだやかに安定することもその必須要素だと、
ようやく私たちは気付き始めている。
後者の、当たり前だと思っていた条件が、
ボロボロ崩れつつあるおかげで。

雷は、古くは田を四つ書いて一文字だった。

 田田
 田田

電光の瞬時に放射される様子を象っているとされる。
今、絵で描くならこんな感じだろうか。

 ☆☆
 ☆☆

(…失礼。やってみましたが、やはり、
 漢字には表現力で全然かなわない)

陰陽あいせまり、感じて雷となる(天文訓)
雷雨はものを生じる者(説文)、ともいう。

ぴかぴか。
たくさんのいかづちが、
何かの始まりを告げている。
新しいものが激しく生まれる様を、
古代の人々がそうしたように、
怖がらずに見ていよう。
音と光の、空の交響曲。

砂漠化

ワンバートル先生は、
ポロシャツにチロル帽をかぶって現れた。
昔、日本に国費で留学なさっていた。
今もとてもきれいな日本語で話してくださる。
長い年月、太陽と風に当たった顔でクシャッと微笑む。
その様子はいつか行ったチベットの人々を思い出させる。

フフホトの町を出発し、バスはぐんぐんと進む。
北京五輪の影響で人々の出入りが控えめになっているという。
いつもなら、夏のツアー客が大勢いるはずの観光スポットに、
ほとんど人影がない。

本来のモンゴルの風景は、
まだずっと平原の先に行ってから見られます、とバートル先生。
え? 今見える広大な畑は違うのですか、と私。

先生は子供に言って聞かせるようにゆっくりと答える。
これらはみな、漢人によって拓かれました。
私たちは牧民ですから土地を掘り返すことはしない。
モンゴル人みなが草原で馬を駆り、羊や牛を飼うことで、
そこが砂漠になることはこれまでなかったし、これからもないでしょう。
しかし畑は別です。薄い表土を損ね、不毛の土地にしてしまう。
砂漠化の進行は、今いわれるように牧畜のせいではなく、
それを止めても収まらないのです。

言葉のはしばしに悔しさがにじむ。
伝統のライフスタイルを失わないでほしい。
それは極度に乾燥し、冷涼な大草原でモンゴル民族が切り開いた、
本当にそこにふさわしいLOHAS(健康的で持続可能な生き方)
なのだから。

お話をうかがいながら、ふとひるがえり、
温暖で湿潤な瑞穂の国からやってきた旅人の私は、
田畑を持つことを環境破壊ではなく、持続可能な営為に変えた、
先人たちの知恵と、それを受け入れた島国の自然を思う。
でも同じことをここでやってもLOHASにはならないのだ。
人間になにができるかはその場所の自然が決める。

旅の始めにもうお一方、同行くださる方がいる。
レスラーみたいな体型だけど、詩人で俳人のリスチンチョクトウ氏。

岩と草の入り交じる山間にさしかかったとき、
ハイ、トイレ休憩です、とバスが止まった。

リスチンチョクトウ氏とは、
外の空気を吸いに出て、初めて会話を交わした。

北京からフフホトへ

北京の交通量は70%制限されていた。
三割流入を抑えているのではない。
七割の車に対して移動を規制しているのだ。

オリンピック直前、
中国政府の神経の尖りようを示すような、
何重にも重なったセキュリティチェックを抜け、
第三空港から街に出た。

天安門広場に通じる地下道を歩いている頃、
喉の痛みを感じるようになった。
息を吸うたび、ひりっと粘膜が刺激される。
メンバーの中で、もともとアレルギー気味の人たちは、
とっくにマスクを二枚重ねしている。
私も一枚、借りることにした。

天安門広場は西日にあぶられ、
ほこりっぽく、混雑していた。
門や紫禁城をバックに記念写真を撮り、
すぐに引き返す。喉がガラガラだ。
マスクから盛大にすでに吸着したほこりのにおいがする。

空港で夕食を取り、夜になり、
ようやく省都フフホト(呼和浩特)へのフライトが叶った。

1947年に成立した内蒙古自治区は、
1949年の中華人民共和国成立に先んずる。
13世紀にチンギス・ハーンが大帝国を打ち立ててより、
むしろモンゴル民族は分裂を繰り返し、
多くの時を他民族支配の中で過ごしてきた。
内蒙古・外蒙古(現在のモンゴル国)という表現は、
清朝の頃に始まったという。

フフホトに暮らすのは、
ほとんど漢人だと聞いた。
内蒙古全体で見ても人口2400万人の80%は漢民族。
他にわずかに満州族、回族などもいるから、
モンゴル族は20%いない。

五つ星のすばらしいホテルだった。
風呂の水はふんだんに注がれ、
インターネットも電話も不自由なく通じる。

まだ、近代西洋文明のシェルターの中にいる。

モンゴル トラベローグ

すでに他のブログでレポートが始まっていますが、
メンバーで中国内蒙古自治区に行ってきました。
内モンゴルは、チベット、ウイグルとともに、
中国内に存在する主要な自治区の一つです。

CPPではモンゴル重曹を長く扱わせていただき、
その優しい使い心地に感心してきました。
また、輸入元である木曽路物産さんより、
製造・輸送の苦労なども多少漏れ聞いていました。

なので、一度自分たちの目で、
ちゃんと見てみたいと思っていたのです。
それらが生み出されるところを。
それらに関わる人々を。
そして、それら人とものを包み込む、
モンゴルの風土を。

総勢10人のメンバーが、
20個の瞳をもってモンゴルを旅しました。
ここでお伝えするのは、そのうちの2個、
ioの眼がとらえたモンゴル像に過ぎませんが、
私たちがいつもお世話になっている天然の重曹を、
縁あって与えてくださっている国のあり方、
そこに住む人々の暮らしや思いのなにがしかが、
みなさんに伝わるきっかけになればいいなと思います。

合わせてラボの他のブログも巡ってみてください。
そのうちみんなのモンゴルのコンテンツだけで、
どこかに内容を集結させるかもしれませんが、
今はそれぞれの記憶を、サイトのあちこちに種撒きして、
それらが自ら芽吹き、花咲き、風を呼ぶかもしれぬ様子を、
静かに見守りたいと思います。

ご意見、質問、情報その他、歓迎いたします。
コメントにはたくさんのスパムが入りますが、
掃除しますので気にせず利用してください。

モロヘイヤ

8月はほとんど日本にいることがなかった。
ようやく帰ってきて、少しずつ緊張をほどいている。

中でも強く心に残ったのは、
新熱帯に息づく様々な緑と生物の姿。
湿度100%のレインフォレストには、
あらゆるところに生きものの濃厚な影があった。
危険なものも、美しいものも、名もなきものも。
そして標高1500メートルのクラウドフォレストには、
猛スピードで飛来し、また去っていく、
ひとりぼっちの鳥と虫が、たくさんいた。

なんという強さだろう。
なんと生きものは多様で奇妙なのだろう。
衝撃はギュウと胸を押し潰し、思考の殻を砕いていく。

日本に帰って最初の日、
浅い眠りの中で森の夢を見た。
目覚めて泣きたくなり、
夜明けの畑に出た。

長い留守の間、
きままに生えた雑草を、
ザックザックと刈り取る。

青い草のにおい。
たわんで、しなって、ぷちっと切れる、
生きているものの手応え。

草の根元にバッタの幼生を見つけ、ほほえんだ。
猛々しい熱帯のバッタとくらべ、
色といい、大きさといい、動き方といい、
温帯の生きものは、なんてやさしく、はかないのだろう。
周りを飛ぶ蚊ですらふわんふわんと所在なげで、
すぐに追い払ってしまえる。

よく育ったモロヘイヤを摘んで、
トロトロの朝ご飯にした。
たちどころに意識がクリアになり、
新鮮な緑のスタミナを実感。

その後、また浅く眠った。
熱帯の緑が再び夢の映像を縁取り、
まだそれに包まれていられるよう、
意識を失う瞬間も祈っていたように思う。

緑陰の向こうに

パワポ資料を用意して、
ここ10年ほど続けてきた、
環境に配慮する生活改善運動
(↑文字にするとおそろしくつまらない)
の経緯と、CPPの現状説明をする。

最初は、アレルギーのある人たちに喜ばれるニッチ情報だった。
ふと気づくと、流行のナチュラルでおしゃれな暮らし方と呼ばれ、
ときどき節約や手作りブームの大波小波にも乗せていただいた。

今は安全と健康を求める人たちの生活に、
必須の情報と位置づけられている。
なかでも知識を持つことと、実際に物資を手にすることが、
ムーブメントの両輪であり、大事なセットだと思う。云々。

話をしながら、
龍のことを考えていた。
公開された知識という、
この世を守護する龍のことを。

今日ここで話したことが、
これからどのように作用するか/しないか、
つまるところ知識は知恵につながらなければ用無しなのであって、
何を話しても、そこに愛と勇気が育つように、
しかしそれならば何を話してもよいのだと、
また、それしか渡せるものはないのだと、
身にしみて龍の言葉を聞いている。

大小さまざまな、
金のうろこの、銀のうろこの、
白い髭持つ、黒い翼持つ、
龍たち。
龍たち。
龍たち。

はなせ、はなせというので、
それにこたえてはなしつづける。

帰りに緑の並木道を通ったとき、
ざわざわと風に乗って声がした。

まだまだ、もっともっとね。

梢はとても暑くて眩しくて、
あまり見えなかった。