自然なお茶園をたずねて

大和の山あいにある都祁(つげ)の里は、
空気と水のきれいなお茶の名産地。
しかしここでも農林業の衰退は進み、
お茶畑はあちこちで放棄されています。
old_field
※昔茶畑だったところ

そんな過疎の里に、
自然農法で田畑に向き合う20代の若者たちが、
縁あって暮らしを結んでいます。
ikawa_guys

その中心、伊川健一さんは、
都祁の風土に合った農産物であるお茶を、
古いお茶畑を譲り受けて無農薬で育て、
そのような自然茶を待ち望んでいた、
全国の人々に送り届けて、大変喜ばれています。
tea_field2tea_ground
※(左)自然茶の畑 (右)畝の間には剪定した枝葉を敷き、
 その土地の有機物はまたそこに返しながら雑草を予防

お茶は木ですから、
長い間放っておくとジャングル化します。
それをみんなで刈り込んで良い茶畑によみがえらせ、
さらに自前での加工や販路の開拓を行うなど、
これまでに出会った数々の“荒れ野”を、
自然体でニコニコと切り開いています。
old_field2
※伊川さんが初めて復活させた茶畑。奥はまだ茂み状態

初めて「春番茶」を飲ませていただいたとき、
そのさわやかなグリーンの香りと甘みに驚きました。
昔はどこのお茶農家でも、春の番茶を作っていたそうです。
加工と販売の都合から次第に収穫されなくなったとか。
でも、自分たちで茶葉を加工する健一自然農園さんでは、
春番茶、春ほうじ茶が作れるんですね。
いつもとはまた違う、昔の家庭茶のおいしさに出会えます。

同じお茶の葉っぱから煎茶、番茶、ほうじ茶だけでなく、
ウーロン茶や紅茶もできるって知ってますか。
ふつうは、よりウーロン茶向きの、あるいは紅茶向きの、
それぞれ品種の違うお茶の木から作られますが、
日本茶の木からも半発酵させればウーロン茶、
完全発酵させれば紅茶ができるのです。

日本茶の木からできたウーロン茶と紅茶は、
どちらも甘く優しいお味です。
胃にこない感じで、がぶがぶ飲めます。(^^;
ただいま、この和紅茶でチャイを入れるのがマイブームで、
はちみつやミルクも入れ、幸せなティータイムを過ごしています。

おっと、話が横にそれましたが、
そんなわけで、毎日飲むお茶だからこそ、
国産の無農薬栽培のものがきちんと手に入ることのうれしさを、
ほっと一服、味わってみませんか。
都祁の里と、伊川さんを始め、そこに住む人々の、
光に満ちた新たなトライアルに感謝しながら。
tea_field

風トンボ

台風一号が鼻先を掠めていくとかで、
ずっと雨の降りやまぬ東京から、
山口に電話をかけた。

元気ですか、と力強い声。
なにやら電話の向こうはにぎやかで、
これから田植えの祭りだという。
青年神職さんたち数十人が集まって、
今年のイセヒカリの苗を、
田に植えるところだった。

五月の風が山あいの田をなでていく、
中国山地のやさしい景色が見える。

クモが巣を張り、オタマジャクシが泳ぐ。
静かな水泥に動くタガメやヤゴの姿。

あの土地の上流には、
田んぼもゴルフ場もない。
ただただ山からの清冽な水が流れてくる。
これ以上はないというくらい、
有機無農薬栽培に適した土地なのだ。

田に入る神職さんたちの足も、
その水に触れるだろう。すてきだなあ。

以前、沖縄出身の方が、ふるさとでは、
台風の来る前はトンボが無数に飛ぶので、
ああ、二、三日したら嵐だなとわかると言っていた。

群れて飛ぶのはカジフチダーマー(ウスバキトンボ)。
「ダーマー」は「ヤンマ」のようなトンボの類を指し、
「カジフチ」は文字通り「風吹き」の意味だという。

奄美や高知では同じトンボのことを、
「シケ(時化)トンボ」という。やはり低気圧の前ぶれで、
群れた後は海が荒れるという言い伝えがあるようだ。

だからといってめずらしいわけではなく、
これから秋にかけて日本でよく見かけるトンボ。
田んぼや沼、小さな水たまりなどでも育ち、
一カ月もすれば成虫になる。

今年もまた、あの自然田は、
ヤゴのかっこうのすみかになるのだろう。
呼んでくるのか、呼ばれてくるのか、
大風の使者である小さなトンボたちの。

愛しき果実

今年も河内晩柑が届いた。
年中暖かく、日差しの多い地域でないと育たないため、
生産量の少ない、しかしとてもおいしい夏のミカン。

和風グレープフルーツとか、夏文旦とか、
ジューシーオレンジとか、美生柑とか、
いろんな名称で呼ばれている。
熊本で見つかった枝変わり(突然変異)で、
手に入るようになって数年経つけれど、
初夏になるたび、その香りとほろ苦さ、
やさしい甘さに感動する。

高級果物店などには、たぶん、
すごい値段で置いてあるかもしれないが、
もし万が一スーパーなどで見かけて、
玉のサイズがある程度大きいなら、
即買いの価値あり。

農薬不使用ならマーマレードにするのもおすすめ。
実より皮が好きという人もいるくらいだ。

熊本県河内村には、
今も河内晩柑の原木があるという。
昭和十年頃にこれは優秀な新品種だと、
認知され始めたというから、
もうそうとうな樹齢だが、
毎年元気に実っているそうだ。

これとよく似た話を、
別の柑橘でも聞いたことがある。
静岡の寿太郎みかん。
徳島の酢橘。
ともに原木は枝変わりで、
発祥の地で大切に受け継がれている。

ということは、
不思議な枝ぶりや、見慣れぬ実の様子を、
注意深く観察して、大切に育んだ人がいる、
ということなのだ。はじめの一枝、
不用意に剪定してしまえばオシマイのものを。

そりゃあ見る目には自信あるもの!
寿太郎さんはほがらかに言っていた。
それに木が教えてくれるから、と。

やっぱり酢橘の実も古木になると、
若い木よりやさしい味がすると大麻の村人は言った。
この木はとても長生きでねと幹をなで。

そんなふうに、人との関わりの中で、
どんどん良い性質を現していくタチバナ科の植物の、
大胆さと健気さにいつも驚く。

神話の中で、
海に身を投じた弟橘媛命を、
どこか思い出させる。
まこと愛しき果実だと、
それぞれのいわれを思い出す。

わき道をゆくのだ

山の緑が両側から迫ってくる。
ほとんど車のいないバイパスを抜け、三崎に出た。
カーラジオからは、全国あちこちの高速で、
50キロを超える渋滞だというインフォメーションが聞こえる。

強風の港。
漁船のエンジン音が響く。
長袖のセーターを着て、
晴れた海を眺めながらビールを飲む人々。

おすすめの魚屋さんで、
気が向いたときしか出てこない、
「本気のまぐろ丼」を頼んでもらった。
東京で食べたら5000円は下らないだろう、
本まぐろのとろける味わいにびっくり。
ふだんまったく執着しないけれど、
トロ好きの気持ちがわかるようだった。
丼の値段を聞いてまたびっくり。
本当にそれでいいの?

あとは散歩をしたり、コーヒーを飲んだり、
夕焼けを見たり、地魚を買ったり食べたり。
海っぱたのひとときを楽しんだ。
港に夕暮れがせまる。
misakiko

夜になって、
戻り道は長くゆるい渋滞。
巻き込まれるのを避けて、
海岸沿いや畑の間をすり抜けた。

闇に光る二つの目は、
一瞬で林に消えた。
どこかでやさしい波音が聞こえた。
ぽっかり口を開けた隧道に、
峠の風とスポーツカーが吸い込まれていった。

小ぶりで親しみやすいこの半島は、
いきいきと夏の気配を伝えてくれる。
アウトレットもテーマパークもないけれど、
けっこう穴場だと思うよ。

春仕舞い寿司

福井市におじゃました帰り、
駅ビルの中であわただしく、
小鯛の笹漬けを買った。
行くならおすすめと言われていたので、
とにかく手に入ってうれしかった。

そのまま刺身のように食べても、
お茶漬けにしてもよいようだった。
でも香りのよい小さな杉樽を開け、
かがやく鯛の身を見たとたん、
考えが変わった。寿司にしよう。

白米に四分の一黒米を足し、
桃色の飯を炊く。

その間にすし酢を用意する。
関西風に甘めでつやっぽく。

汁椀は間引き大根とかじめをさっと煮て、
八丁と赤味噌でかっちり仕立てる。

たきたての飯にたっぷりすし酢をふり、
そぎ切りにした小鯛と黒ごまを混ぜる。

なじんだら小鯛の寿司を皿に盛り、
京都・七味屋の七味をトッピング。
山椒の香りがクセになる、
思いきってたくさんかけておいしい、
仕上げのスパイス。

すし飯のところどころに、
淡いピンクの鯛が見えてキレイ。
ひきしまった身にぎゅっとうまみが濃縮している。
大葉や枝豆など入れても美麗だろう。

その色の取り合わせは、
八重桜を思い出させた。
臙脂色の葉脈をしたうすい若葉に抱かれ、
牡丹のようにぼってり重い花が咲く。
春の終わりの豪奢な桜。

食べ終わったら、
いよいよ初夏だなあ。

缶ビールを買って

花冷えの街で、
線路わきの崖にへばりつく桜と、
その桜を囲んで励ましているような、
菜の花の群生を見つけた。

かなり垂直に近い土の壁に、
金色の光を散らしたような菜の花。
その上に、鳥の巣のようにもじゃもじゃに、
からみあいながら手がかりを得ていった、
桜の、細くて長い枝がかぶさっている。

 どうしたの、こんなところに。

思わず言葉が口をついて出た。
枝先に二輪、三輪。
これからもっとたくさん咲くだろう。

 でもちょっと、お花見にはむずかしい場所だねえ。

なぜか桜に話しかけている。
あまり気づかれないでいたのかな。
通りからそれほど距離はないけれど、
足がすくみそうな崖っぷちに、
何年かかったのだろう、
這い上がるすべを見つけて。

捨てられたのかもしれなかった。
朽ちていくための場所というなら、
その急峻はちょうどよい空き地ともいえた。
でもそこに根を張り、伸びてきたのだ。

そのもじゃもじゃはとてもきれい。
桜の、生きるための苦闘の跡そのものなのに、
どこかのビルの前に置かれていてもおかしくない、
複雑なオブジェのように見える。

背面にいつも死があって、
前と上にだけ生存の空間があった。
歪んだ条件がほかにはない形を生み出し、
それをより美しいと感じる人間がいる。

満開の頃にまた来ようと思った。
近くまでは行けないけれど、
小さな缶ビールを持っていって、
この桜に乾杯しよう。
立ったままで。

まもなくこの寒さもゆるむそうだ。
そうしたら、春の錦はどこもかも、
急速に織り上がるだろう。

宙の箱

新しいお米の品種について、
早くから味の評価に協力している、
面白いお寿司屋さんに行った。

米に限った話ではないが、
品種というのは、
ロウソクにともした火に似ている。

限られた時間の中で、
次のロウソクに明かりを継がなければ、
火は消えてしまう。

次々とロウソクを増やして、
あかあかと世を照らすこともできるが、
突風ですべて消え失せることもある。

いつも次の火を用意しておかなくては、
思いのほか儚いものなのだ。

宇宙ステーションで今、
若田さんたちが食べている、
山菜おこわのお米も新品種だ。

うるち米ともち米を混ぜるのではなく、
うるちともちの中間の性質を持つ新しい米を、
水だけで食べられるようにアルファ化してある。

過酷なミッションの最中でも、
おいしく食べて、元気になれるように。

願いを込めた新しい火は、
これからどんなふうに、
地上で点し継がれるだろう。

ステーションでは尿も汗も集め、
浄化して飲める水にするという。
限られた空間での暮らしには、
何のごまかしも妥協も効かない。

うたい文句ではなく、本当にきれいな水。
ブランドではなく、本当においしい米。

暗い空に浮かぶ小さな箱には、
たくさんの「本当のこと」が詰まっている。
箱の中で起こっていることは、
なにも遠くの特別なお話ということではなく、
生活を「生命を活かす営み」と成しきることなのだと、
つやつやのシャリをかみしめながら、
ひどく身近に感じていた。