1月29日(日)モノローグ

午前中に雑用を片付け、午後からラボへ。
誰もいないスペースで、ひとりごとを言いながら作業する。

「お願いだ、溶けてくれ~」
「あ゛~、やると思ったよ、バカじゃねえの」
「そろそろ時間じゃない?」
「おおバッチリ、やりましたね~」

誰かがいれば、
声にならないはずの声が、
幼い頃の一人遊びのように、
ゆるゆると流れ出していく。

もうひとりの私が、私を見ている。
不器用に道具を操り、何か作ろうとしている私を。

人間の意識には、
まだまだわからないことが多くて、
それ以上に無意識には、
わからないことが多いというけれど、
ひとつ、明らかになってきたことに、
シナプスの信号がプラス(興奮)ではなく、
マイナス(抑制)でつながっていると、
その先に意識は届かないということがある。

広く、昏い無意識の海の上、
イカ釣り漁船の灯りみたいに、
私のことを私だと思う何かが、
意識の明るみにしがみついている。

ツッコミ係さん、ごくろうさん。
久しぶりに外で会いましたね、また明日もヨロシク。
ふたたびワタシの中で。ね。

1月28日(土)気持ちのコンフェイト(confeito;砂糖菓子)

金平糖が届いた。
京都、緑寿庵清水 、2006年2月の限定品、キャラメルの金平糖。

去年の春、京都を訪れたとき、
ニッコリほほえむ先生に、
「予約した金平糖を引き取りに、
また京都に来るというのもいいものですよ」と、
不思議な勧められ方をして、
そうかも、と、予約した。
しかし一年近く先だなあ、と思いながら。

昨秋、黒田清子さんご結婚の際、
引き出物のボンボニエールに入っていたのも、
ここの金平糖だそうだ。
もう少し前に結婚したヤワラちゃんも。

そんなこととはつゆ知らず。

行列、品切れ当たり前のレアものは、
引き取りを待たずにさっさと宅配便でやってきた。

日本酒、チョコレート、トマト、抹茶、サイダー、桃、ラフランス…。
五代目は、これまで不可能と考えられていた材料を使って、
それはそれは美しい金平糖を作り出す。

添加物をいっさい使わず、最高の材料と繊細な技術のみで、
季節の金平糖(そんなコンセプトが今まであっただろうか)が生まれていく。
世界でそれができるお店はたった一つ。
食べられる芸術品。

先生。

金平糖は受け取ってしまいましたけど、
また京都に行きたくなりました。

ひょっとして、この気持ちを引き取りに、
また行こうと決心するであろうことも、
もしやお見通しでらしたのでしょうか。

1月27日(金)うら、うららかに、うれひなく

昼の混雑の終わったお寿司屋さんで、
今夜のために次々仕込まれる新鮮このうえないネタを、
ちょっとずつ握っていただきながら、しばし打ち合わせ。

あとは朝まで仕事場で、大量の文章に目を通す。

ウラという音には、
心という字も当てられるという。

ウラは浦、裏。
ウラ合うのが占い。
ウラミは浦見、裏身、しかし、恨みでもある。

田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ
  富士の高嶺に 雪は降りける (山部赤人 万葉集)

そうか、と思う。
心(ウラ)とは「海辺」のことなのか。

陸上の汚れは、
波打ち際で海に洗われたとたん、
クルリと反転、浄化のプロセスを歩み始める。
まず、海水に含まれる大量の重曹が、
最初に汚れを一次分解するのだ。

古代の人は知っていたのだろうか。
ウラは、浄化の最前線だということを。

私たちの内なるウラは、浄化しているか。
万葉人の詠んだように、のびやかか。

1月26日(木)風に吹かれて

お土産を抱えて田園調布へ向かう。
途中『超バカの壁』を読む。

人間は壁を作るのが得意だ。
あるとよっかかれるし。
その先を見なくていいし。

訪問先でもそんな話になる。
そうしないで「壁」の撤去に励むと、
いきおいピューピュー吹きっさらしの、
広い野っぱらにポツンと立つことになる。

でもいいじゃない、シンプルで。
「真実」が助けてくれるわよ。
その人は言った。
真実は一つだから。ゆるぎないから。
仕切って歯が立つものではないから。

ボランティアの大先達には、
こんな感じの、筋金入りのサムライが何人かいる。
いつも大笑いしてバカ話に興じているけれど。

仕事もボランティアも超一流。
別に分けるようなものでもない。

それも意味のない壁の一つだと、
駅に向かう坂道を歩きながら深呼吸する。

家々の高い塀に沿って、
まだ少し雪が残っている。

1月25日(水)地上に出るたびに

光の量は春だ。

毎年この季節、一年で一番寒い頃にそう感じる。
最も夜が長い日は、去年のうちに過ぎている。
太陽が地球を暖め始めて、地温が上昇するのに、
約2カ月のタイムラグがある。

大きいからなあ、地球。

大きいひなたぼっこ。

ビルから出てきたとき、地下鉄の階段を上りきったとき、
思いがけなく強い光のシャワーを浴びる。
うすぼんやり眠っていた物々の輪郭がはっきりしてくる。

もう少ししたら、苦い野菜を食べよう。
人と話しながら、街を移動しながら、パソコンを叩きながら、
ふと思う。

ヨミガエリの春が連れてくる圧倒的な森羅万象を、
ことほぎ、また、おそれてもいる。
苦みの感覚を抱きしめていなければ、
眩暈を起こすだろう。

1月24日(火)ざっくざっくと草を刈り

夜明け前に起き、放っておいた資料の整理に追われる。
朝日が高く昇って、やっと髪を洗ったら、
生まれ変わったようにすっきりした。

出かける直前に宅配便が届く。
月イチで頼んでいる「チェおばさんのキムチセット」。
玄関に置いたまま、あわてて出かける。
きっと帰ったら、家中がキムチのにおいに違いないが、
すぐに処理する時間がない。このところ特に寒いから、
室温でも多少は発酵を遅らすことができるはず、と、
ひたすら乳酸菌のご機嫌頼み。

アキハバラ近くの、とある無線のプロショップに電話。
縁もゆかりもないが、ホームページの気配が気に入ったので、
電話に出た声の主に単刀直入に相談し、
前から必要と思っていた音声記録システムを、
コンパクトに組んでもらうことにした。

どうしてウチを、と彼は聞かないし、
どうしてココに、と私も言わなかった。

でも大丈夫。言葉の端々から、
無線が好きでしょうがないとわかる。
それ以上の良きしるしがどこにあるだろう。

好きで、伝えたくて、自分の中にあふれているものを、
心から差し出せばいいのだと、それだけの勇気を持つのに、
何年もかかった。

でも、そうしている人は、この世のあちこちにいっぱいいる。
出会えばすぐわかり、ココロ交わしあうことができる。

その感覚が鈍らないように、
ときどきこんなふうに、エイヤと勝負に出る。
一気に草を薙ぎ払い、
彼岸此岸のココロの輝きを見つめるのだ。

2006年1月23日(月)やわらかなアワビ

残っていたレポートを急いで書いてから仕事場へ向かう。
電車の中でパソコンを広げていると、
左隣のおじさんに、携帯ラジオとハウリングするので、
電源を切ってくれと頼まれる。
やりかけの推敲があるので、困って右隣のおじさんを見ると、
ハイハイ、という感じで席を交代してくれる。
電磁波は距離の3乗に比例して減衰する。
ありがとう、おじさんたち!

夜8時前にはテレビがホリエモン逮捕を伝えていた。

9時半に某ホテル「懐かしの社用族御用達ラウンジ」見学に合流。
もう火を落としていたのに、アワビのステーキを焼いてくださり、
舌鼓を打ちながらエネルギー充電。
アワビは肉よりも火の通し方がむずかしく、
火を通さなくても通しすぎても固いそうだ。

シェフの手さばきに見とれていた。
調理とお客の相手を洗練した物腰で一度にこなす、
それもひとつのスターシェフの姿だろう。
テーブルマジックを見ているようだった。

無意識ということを考える。無意識になるほどの洗練。
そこに至るまでに、一度全てを意識化するプロセスがある。
アワビの動き、油のはじける音、フタを置く時間、ひっくり返すタイミング。

正確に細かく意識すればするほど、後のオートモードは芸術に近づく。
毎日の暮らしを意識化することも、その一環だと思っている。

はやし立て、蜘蛛の子を散らすように逃げる。

話題にすることと、意識化することは違う。
批評することと、意識化することも違う。

見て、感じて、まっすぐに本質を問う。
不動の視点を持てないものか。

最後に飲んだスウィートシェリーは、とてもおいしかった。
うとうとして、友人たちに笑われながらだったけれど。