2月12日(日)バッテリーあがり

ラボに出かけようとしたら、
車のバッテリーがあがってしまっていた。
少し前から危ないとは思っていたけれど。
うーん。

引き取りに来ていただいて、
本日の外出予定もご破算にする。
その代わり、腰を据えてたまったデータの整理を始める。
贖罪のごとく。いえ、贖罪ではありませんが。

ヴェルディの「仮面舞踏会」をかけ、
若いパヴァロッティの軽薄な黄金のような声を聞く。
ふうむ、でも愛している女性を手放そうとするときの独唱は、
少しだけそのピカピカの声が湿っている…などと感じ始めたら、
止まらなくなった。「ナブッコ」でかなり酔っぱらい、
少し軽めに、と、バッハの「ゴルドベルグ変奏曲」をかけ、
でもおさまらずモーツァルトに走る。ピアノソナタ6、7、8、9、
セレナード第13番ト長調 K.525アイネ・クライネ・ナハトムジーク…

バッテリーがあがっていたのは、
どうやら私のほうらしく。

手当たり次第に乱聴するうち、
やっとなにかが満たされていく。

明け方まで楽しく“贖罪”してしまった。
ちょっと眠ろう。もしもありがたくもちゃんと明日も目覚めたら、
ますますこの世の真善美に仕えます。
と、本日のむちゃくちゃな演奏会のキャストたちに、
お礼を申し上げる。誰にも迷惑をかけず、
こんなにハッピーな気持ちになれる、
現代に生まれてよかったと感謝して。

2月11日(土)やさしさチョコレート

心が凍えそうになっているとき、
人の手になる温かな食べ物で、
思わず知らずほぐれていく何かを感じることがある。

痛い痛いと叫んでいるとき、
痛くてもコッチ行こうぜ!と呼びかけられて、
ふと我にかえり、傷をさすっているよりも、
光を目指して進む勇気を与えてもらうことがある。

闘っているとき、
黙ってそばで見ていて、
終わってもただそこにいてくれて、
そのことがめちゃくちゃしみることがある。

やさしい気持ちの現れは、
その時その状況で千変万化する。
厳しいほうがやさしいこともあるし、
やさしいほうがやさしいこともある。

中でもやさしく見えて冷たいこと、
やさしくても卑怯なことには用心、用心。
そういうやさしさでないやさしさが一等いい。

とりわけ。
弱さはやさしさにつながらない。
弱さはむしろ、残酷と無慈悲の仮面である。

もうじき、聖バレンタインデイ。
その人は命を賭して、
愛もて結ばれぬ運命の破壊を試みた。
火のようなやさしさを貫かれた方だ。

さて、チョコ欲しい(義理でいいから)と、
あちこちから言われているけれど、
明日あたり買いにいこうかな、どうしようかな。

義理じゃなく、本当にやさしくするので、
気はやさしくて力持ちな金太郎さんキャラに育ってね、
と、メッセージを付けよう。

同じ時代に生まれたことを、
とても感謝している。
ともに磨き合うことのできるこの世界を、
どんなにかありがたく思っている。

真摯に生きねば、
落ちこぼれまする。
そんなこと、あってはならじ!
と、義理ではなくがんばるのでありまする。

2月10日(金)ロビーには歌を、傷にはワインを

相談、説得、議論、妥協、
連絡、手配、報告、挨拶…
といった単語にまみれて一日が過ぎ、
本日最後の打ち合わせ用件のため、
都内の小さなホテルに赴く。
午後9時半。

このロビーは足音が響くので、
いつもヒールをそっと下ろす。
でも今日はちょっと様子が違う。

ジャンベの音がする。
民族衣装の女性4人がアカペラで歌っている。

金曜の夜、小さなコンサートが開かれていた。
隅のソファにちょこんと腰を下ろし、そっと耳を傾ける。
「これは思わぬプレゼントだなあ」
待ち合わせた相手も場所を変える気はなく、
次第に微笑みが増えて、話もはずみ始める。

ひとかたまりだった女性たちがフワリと展開し、
客たちの座るソファを囲んで輪になった。
ささやくように「上を向いて歩こう」の歌が始まる。
文字通り、生の3D音源と化したヴォーカルが、
客たちの頭上でひとつに溶け、ゆっくりと落ちてくる。

「月だ」
相手が真上を指さした。
ホテルの透明な天蓋を突き抜け、
蒼い光の束が眼底を射す。
ウエヲムイタラツキ

突然記憶が蘇る。
中国の、名前も知らぬ奥地の塔に佇んだとき、
今日と同じように空から降ってきた優しいものに触れた。
誰かが歌う「アヴェ・マリア」。

そのとき私は、
ともに旅をしていた少年のわがままに疲れ、
思わず怒鳴ったあとだった。プイッと子どもが消えたあと、
かなしみがあふれた。愚かな。彼も苦しんでいるのに。
Ave Maria

2月9日(木)眠れよ吾子

また昨日から長い一日を続けている。
いい加減にしないと武装蜂起するわよ、
と、私の肌が叫んでいる。

そりゃそうです。
1週間に2回はあんまりです。
せめて1回にしませんと……。
(そういう問題じゃない?)

ものを考え始めると、
急速に時間が過ぎ去っていく。
食べることも眠ることも忘れる。

ずっとそのままでいればいいかというと、
生きていくためにはそうもいかないのでありまして、
無理矢理体をデスクの前から引っぱがして、
イヤダイヤダと暴れる子供をなだめるごとく、
ロボットのようにぎこちなく世話をします。

そんなとき、役に立つのがお風呂とヨガ。

お風呂はぬるいのに長く入る。
頭の中のとんがった何かをゆっくりゆっくり冷ますように、
ひたすらお湯の中でぼーっとすることを強制する。

ヨガは、脊髄から腰骨を整えるもの中心に何ポーズか。
床にタオルケットをひいてほんの十分程度。
毎日ではなく、気の向いたときに。
十代で覚えて、今も私の健康管理のバックボーンだ。

でも、健康管理、という言葉は適切ではないかもしれない。
管理しているというより、体に話しかけるときの言葉だから。
意識の私が支配し得ない何者かに、
どこか深くコンタクトを取るために、
一種のコミュニケーションツールとして使っている。
これもひとつのnon verbal communicationじゃないかなあ。
今流行りの。(というか流行るも何も人間とはそういうもの)

そんなことを考えていたら、
久しぶりにちゃんと対話したくなったので、
今日はちゃんとセルフケアするんだよ、と、
自分に言い聞かせているところです。

オヤスミナサイったらオヤスミナサイ!

2月8日(水)人を変えるもの、人を人たらしめるもの

創作料理の試食会。

イカと大根の軽い鍋モノをいただく。
やはりこの組合せは王道だ。
いくらでも箸が進む。

途中、魚はなぜ魚くさいかという話になる。
イカやタコはくさくないのに。
皆に負けずにパクつきながら、
魚の体を構成しているタンパク質がその死と同時に分解を始め、
においの主な原因物質トリメチルアミンを作ることを話す。
それを中和するには酸が適当であること、
だから煮魚の隠し味に酢を一匙入れたり、
梅干しを入れて鰯を煮たりすることを話す。
(骨のカルシウムの吸収もよくなる)

その原理をひょいとつまみ上げ、
魚の調理中やあとかたづけにも応用するならば、
ビネガー水のスプレーが便利であることも申し添える。
こういうことに進んで耳を傾けるのは、
なぜか女性より男性が多い。
酢酸でいいかと即座に質問が返るので、
突き詰めればそうだが、
多少使いやすい工夫を奥様と相談して、
優雅に、かつ機能的にお試しあれと伝える。
携帯に残っていた香りつきビネガーの画像が役に立つ。

最近は何でも持ち歩く。
音も映像も文字データもどこかにあって、
がさごそするとアクセス可能な状態に置いておく。
言葉だけで説得できないとはつゆ思わないが、
早いのだ。とにかく。
ヴィジュアルイメージは「体験」の次に、
あるいは体験と同じくらい、
人を変える力がある。

むしろ言葉はもっと暗喩的に使い、
人が体験し得ないもの、
そしてまだこの世にないものを表す、
幻の織物が織られるのに捧げようと思う。

それこそが、
言葉に隠された恐るべき宝物だと、
かつてある人に聞いた。

詩人ではなく、
哲学者でもなく、
もの言わぬ霊長類を相手にする、
白髪の人類学者に。

鍋のシメは堅めにゆでた素麺を投入して、
サラサラといただく。
これが叫び出したくなるほど美味で、
完全にノックアウトされた。

最後は競争。
あっというまに食べ尽くされ、
自分は皆より一杯くらい少なかったかもと思うが(せこい)、
他人の胃袋に入った分さえ祝福したい気分だった。
この幸せな感覚、ずっと忘れない。

2月7日(火)その目は何よりも鋭く強く煌めいている

昨日からずっと一日が続いている。
したがって眠る前に、というこの一筆も、
本日に限っては恐ろしくタイミングを逸している。

でもひとつ、昨日から今日への橋渡しを。

幼い頃から、
ずっと刀を作りたいと思い続けてきた少年が、
澄んだ瞳で鍛冶修行を積んでいる。
いまどき、弟子入りという道を見つけ、
中学を出て一目散に師匠のもとへとやってきた。

熱した鋼は、叩くと水平に火の粉が飛ぶ。
彼のズボンは裾だけひどくボロボロだ。
何度も何度も鎚を打ち下ろす。
筋肉だけのしなやかな体を、
みんな使ってまっすぐに鉄を鍛え続ける。

目をきらきらさせて私のコンピュータをのぞきこむから、
いつかメール友達になれるといいねー、とおしゃべりした。

この春、また彼に会えそうだ。
今朝の電話でいくつか事情が動いてきた。
これはひとつ、フクフク私の心に飾っておこう。

完徹の荒野にも日は昇る。
合掌。

2月6日(月)全速力!

乗り換えで迷った。

ジョルダンで調べたら、最後に乗る地下鉄からは、
10分で目的地に着くと所要時間をはじき出したから、
それでも待ち合わせ場所に少し余裕をもって着くよう、
仕事場を出たのに。

ウソだろう、こんないつも利用している駅で。

初めてお会いする方と、
微妙なテンションの話し合いをすることになっていた。
まずは「花屋の前で6時に」と約束している。

お互い、
早すぎれば寒風の中、凍えてしまう。
遅すぎれば、相手を待たせてしまう。

もう一度プラットフォームに戻る。
どこで間違えたか、
遡るのが一番早いと信じて。

ひとつ矢印を見落としていた。
いくつもの路線が交差する複雑な構内を、
どたばた駆け抜ける。登りエスカレーター途中で、
ドアの閉まる予告音が聞こえる。
走って走って飛び乗る。

花屋の前に立ち、
十数秒後、相手が現れた。
心の中でガッツポーズ。

あとでわかったのだが、
どちらも時計を持っていない。
相手が正確にいつ現れたかに関心はない。

6時、と言って本当は手探りしている。
呼吸合わせみたいなことをやっている。
会うというのは、もちろん、
もっと強烈な現実のスパークだけど。

昔の人は、
それを「いきあう」と言った。

行き会う。
息合う。
意気が合う。

やれやれ、冷や汗ものでした。
やっぱり思いっきり走ってよかった。