2月25日(土)ヒヨコに靴

環境って何だろう。
日高敏隆さんの『人間は遺伝か環境か』を読んで面白いなと思い、
次々と関連の資料に目を通している。

傑作だと思ったのが、ヒヨコの靴実験。
ヒヨコが、親に習わなくても、
エサのミールワームを食べるのはどうしてか、
と思った研究者が、生まれたばかりのヒヨコに、
自分の足が見えないように靴をはかせた。

足が見えているヒヨコはミールワームを食べるヒヨコになった。
足が見えなかったヒヨコは食べなかった。関心を持たないのだ。

驚くべきは、
ヒヨコの足はミールワームと似ていないけれど、
ヒヨコの目がそれを認識できるようになるのに役に立っているのでは、
という仮説を立てた研究者の発想だ。

エサを認識するのは先天的か後天的か、
という問題は、ここでオシマイになる。
モノを見る器官として目が備わるために遺伝は必要だ。
でも、それがエサを認識できるように訓練する環境も必要だ。
そこで、生まれて必然的に見るもの(自分の足)を利用して、
エサを認識できるように物事を取り仕切る、
ある種のepigeneticな仕組みが展開するなんて、
いったい誰がそんな合理的なことを考えたんだ!

人間は環境と相互作用を起こしている、と思っていたけれど、
本当は「環境に埋め込まれている」と言ったほうが、
適切なのかもしれない。内側からはゲノムが、
外側からは環境が、私たちを形作っている。

遺伝も環境も等価で作用しているとなれば、
遺伝はもちろん「私」といえるだろうど、
環境も相対するというより「私」なのだろう。

周りの環境を見ればその人がわかる、という格言も、
心理生物学の言葉できわめて客観的に、
説明できる時代が来るかもしれない。

とにかく、ヒヨコに靴をはかせる、
その突き抜け感に参りました、の一日でした。
世界には、いっぱい面白いことあるなあ。

2月24日(金)鳥が見ている

小さな畑が手に入ることになった。
ただし、自分で荒れた土地を整え、
使える状態にもっていかなくてはならない。
しかしこんな幸運、そう落ちているものではない。

寒さゆるむ2月の終わりを開墾開始と定め、
物好きにも庭師を買って出た友人と手入れを始めた。
長斧、ノコギリ、シャベル、スコップ。
第一段階の整地に使うツールはいささか物騒だ。
打ち壊しの道具。

土は、思った以上にやわらかく、
切り刻むように掘り起こすと、
かつてそこにあったものの残骸が貌を顕す。
木の根や石、コンクリートの破片、ゴミ、切り株などを、
ひとつひとつ除いていく。

人間の頭の中の悲しみや憎しみにつながる記憶も、
こんなふうに額に汗すればdeleteできるものならいいのに。
そっちは脂質とタンパク質の地層に埋め込まれるばかりだ。
死ぬまで消せない。

ふと気づくと、高いところから鳥たちが見ている。
彼らは人間の所業をよく知っていて、じっと観察している。

「本日の作業はここまでで終わりにします」
午前中いっぱい体を動かして、十分によれよれだ。
喜んで現場監督、もとい、庭師の指示に従う。

新しい土がやわらかいでこぼこを作っている場所は、
しかしまだ畑にはなっていない。もう少し準備が必要。
畑になっても、最初に種をまくときは、
鳥に見られないようにそっとまかなくては。
(そんなことできるのかしら)

つい数日前の新聞に、
ヨーロッパの鳥インフルエンザウイルスが、
より人間に感染して増殖しやすい方向に変異を進めている、
という記事が載った。じわじわ追い込まれている感がある。

鳥に見すくめられずにすむなんてことあるのだろうか。
遠くで気配を感じながら、畑の用意をする。
あともう少し時間をくださいと、何かに祈っている。
我らを俯瞰する何者かに。

2月23日(木)しみは楽しみ

昨日に引き続き、
本日の食卓でも赤ワインに遭遇する。
「遭遇」というのは、自分で決めた成り行きではないからだ。
お客さまに好きなものを、と選んでいただいたら、
再び赤ワインの登場となった。

昨日の余波が残っているせい、ということにしておこうか、
途中、不覚にも白いシャツの胸元に数滴、ワインをこぼしてしまう。
フロアサービスの若い女性が私たちの騒ぎを見て、
素早く新しいナプキンを何枚かと大量の紙ナプキン、
それにコップに入れたお水を持ってきてくださる。

と同時に、一テーブルだけに聞こえるくらいの声で、
「よかったら炭酸水をお持ちしましょうか」と微笑む。
オヤ、と思った。この方、よく知ってらっしゃる。
お願いして、あとは食事とおしゃべりを楽しみながら、
時折そっと炭酸水でシャツのワインのしみを押さえ、
落ち着いて始末することができた。

蛇足ながら、しみは布の面に対して垂直に水を移動させて抜く。
水を移動させる力はただひとつ、浸透圧の差だ。
そこにさらに乾いた紙による吸湿力(と、できれば重力)を作用させ、
一気にしみを含んだ溶液の移動を完了させる。
彼女が持ってきたものは、すべて理にかなう道具だった。
さらにこの溶媒として水より炭酸水が効果的ということを、
さりげない提案の形で勧めてくださったことも、
相手の前で微妙な失態を演じている不調法者への救いとなった。

「へえ、そうなんだ」と、一陣の風の吹き抜ける驚きとともに、
お相手の意識はその場でじりじり目立つワインのしみから、
炭酸水という飲み物の持つ意外な、しかし普遍の性質に移っていく。
目の前のしみ抜き作業が、単なる応急処置の取り繕いから、
ぶっつけ本番の実験のように見え始め、
経過の観察がある種のゲーム性を帯びてくる。
ハプニングがイベントとなり、楽しみの軽みに遊び始めるのだ。

デザートにさしかかるころには、キレイにしみはとれていた。
通りかかった彼女に心を込めてお礼をいうと、
ニコッとおじぎをした。フランスにいたときに見て覚えたやり方で、と。
市井に伝わる素朴な知恵を見逃さず、今ある環境の中で、
的確なサービスの域にまで洗練して差し出す器量に感服した。

美味しいお店だったことには違いないが、格別心に残ったのは、
そのもてなしの爽やかさ、こまやかさ、温かさ。
スペシャルな思い出はこんなことからも発生しうる。

2月22日(水)和洋、揚棄すべし

和に限る、と言いながら、フタを開けてみると、
存外、洋のものを選んでいたりする。
頭で思っていることと、体で“思っている”ことは違う。

「何でも買っていいよ。
自分が食べたいもの、他人に食べさせたいもの、
好きにディナーのメニューを組んでごらん」
と、デパ地下に放たれた。

食品売り場を一巡りして、
正直、途方にくれる。
ここには何でもある。

人の胃袋の一食分はだいたい決まっている。
今宵集まる人々のために、食のストーリーを組み立て、
ふさわしい料理をふさわしいポーションで用意するのだけれど。

それってけっこうムズカシイかも。
選択肢ありすぎて選べないかも。
さて、どうしよう。

結局、名の知れた和食の名店がサアどうぞとばかりに、
大御馳走をズラリ並べているにもかかわらず、
買い物の足が向いたのは、カジュアルな洋風献立の道筋だった。

まずワインセラーで赤を一本。
それから、デリカテッセンでフレッシュグリーンのサラダをたくさん。
鮮魚コーナーで出合った大きめのホウボウ一匹に、
生鮮野菜コーナーで生ハーブをちょこちょこ用意する。
これは香草焼きにするつもり。

そして。
最初一周したときからステキだと思っていた、
とあるショーケースの店へ。
まあるいパイとキッシュ、タルトが並んでいる。
その中からチーズとポテトのキッシュ、カスタードのタルトを購入。
ワンホールずつ、大きくて平たい箱に入れてもらう。

ひとつずつ、ひとり分ずつ、皿で出てくるコース料理もいいけれど、
皆でワイワイいいながら同じ食べ物をつつく食事は楽しい。
ホールで置いて、食べたいだけ好きな角度を申請しよう。
「45度でお願い」「とりあえず22.5度」「90度行ってみようかな」

和食は、その成り立ちが、ひとりひとりの前にお膳があり、
決まった皿が並んでいるところから始まっているためだろうか、
皆の前に山盛りしても、下手をすると、
かえって総菜風に見えてしまうのだな、
と、あとで自分のあわただしい無意識の決断を分析した。

キッシュやタルトはフランスの家庭料理だけど、
ホールで差し出したとき、ちょうど和食の鍋モノみたいに、
丸いフォルムが皆を笑顔にしてくれる。山分け感のあるところが、
皆をニコニコ、いつのまにか食卓の仲間にするのかもしれない。

洋のものを和のように、
和のものを洋のように、
プレゼンテーションできるといいな、と思う。
互いが見事なアンチテーゼになっている、
それゆえ、和洋は互いに自らを映す良い鏡だ。

2月21日(火)G.Gershwinと歩いた

今トウキョウで一番好きな街は、と訊ねられたら、
アキバとシナガワと答える。
どちらも街の過去と未来が極端に交錯するところがいい。
高層ビルに中空から出入りするIT・金融の新興企業族。
その下の地べたをごちゃごちゃ埋める大小の商店、外国からの客。
車も通れない細い道にやたら人があふれる。

そのアキバを数時間ウロウロ。
いくつか買い物の目的があるが、
ちょっと前にホッと腰をおろした記憶のある店が、
「ご主人様お帰りなさい」と、
突如メイドバーに衣替えしていたりして驚く。

1年前はうらぶれた通りにポツンとあったインド料理屋さんは、
今やサラリーマンで行列のできる繁盛店に変わっている。
腕のいいオーナーシェフ、ラジさんはこういった。
「私この半年で30kgやせました。見て背中。何も肉がない」
これぞホントのやせ我慢。
しかし最初は閑古鳥に見えても、やがて大勢の客がやってくる。
その先見の明こそ、古い文明の宝。
ラジさん、最近は少しは太れたかな。

最後に、モノのついでと、
耳からよくとれて気になっていたイヤフォンを買い換える。
店員さんオススメの閉鎖型。
目立たず収まりのいいタイプ。
とたんに世界は音だけになり、
頭の中、ガーシュインが駆け回る。

本日の気分でなにげなく朝ピックアップした。
このままほかに何も見ず、聞かず、
このジャジーな世界に溶ければさぞ気持ちいいだろうな、
などと考えていたら、しばらくおとなしかった携帯が、
なぜか急に何度も大声を出すわ震えるわで、
現実に戻ることをキビシク要求するのだった。

ナーダ・ブラフマー(世界は音)。
いろんな響きを聞いている。
美しくても美しくなくても、
そう感じるわけを考える。
響きの来し方、行く末を見つめて、
9thくらいまでなら私もセッションできるかな、と思う。

そうか。
アキバもシナガワもガーシュインしてるんだ。
調子っぱずれギリギリの線で過去と未来をサーフィン。

やっぱ好きだなあ。

辰巳芳子さんのDVDスープ教室出ましたよ~♪

NHK出版さんのDVD+BOOKのシリーズで、
NHKきょうの料理「いのちを養う四季のスープ」です。
2006年2月16日発売、2,730円 (本体2,600円)なり。
テキスト48ページと120分のDVD1枚がついて、
「お得だと思うわ」と辰巳さんもおっしゃっておいででした。(^^)
普通に本屋さんでも手に入ります。ぜひ、これで学んで、
一緒にたくさんおいしいスープを作りましょう~。

2月20日(月)負けを知る

このあいだから、
ずっとうなされている。
同じセリフがリフレインする。

講座が終わったあと、
あるご婦人が個別質問にいらした。
「私はいつも重曹水を使っているのですけどね、
 お掃除が終わった後、ビネガー水でリンスというのは、
 本当はやらなくていいですか」
ビネガーで中和しなければ重曹が析出してきて、
ザラザラ感を起こすことがありますが、
気にならなければそのままでも結構ですよ、と答える。

「うん、ザラザラは困るんですけど、
 でもビネガー水でもう一度というのが面倒で。
 水拭きではダメですか」
水拭きだとまた残った重曹がいずれ析出して、
何度も拭きとりが必要になりますよ。同じ手間なら、
ビネガー水で中和したほうが一発で終わりにできますよ。

「ええ。でも別に重曹水で拭いたあと、
 放っておいてもいいんですよね、本当は」
ザラザラが気にならなければ大丈夫ですよ。

「ビネガー水を使わないといけないですか」
重曹を中和して、一度で仕上げ拭きを済ませるには、
そのほうがいいと思いますよ。

「でも面倒なんです。重曹水だけで終わりたい」
ザラザラが気にならなければ、それでも大丈夫ですよ。
………

件のご婦人はきっと、
講師の口から、「ええ、ビネガー水など使わなくても大丈夫」
という太鼓判を引き出したかったのだろう。
でも何度聞かれても、答えられることはひとつだった。
重曹でお掃除、ビネガーでリンス。
残った重曹は乾くと析出する。
それをリンスするにはビネガーがよい。

自然の法則をうまく利用する暮らし方は、
面倒だから法則そのものをねじ曲げたい、
という人間のクレームには応えてくれない。
ものの道理を変更できる者はいない。

市販の製品ならば、ご婦人の要望に応えて、
面倒な手間をより省く方向に製品を改造するだろう。
「シャンプーしてリンスするのが手間」
ハイ、では一手間でOKのリンスインシャンプーを作りましょう。
「そもそもすすぎがイヤ」
ハイ、ではすすがなくていい柔軟仕上げ剤を作りましょう。
いかようにも物質を合成いたしましょう。
何も考えなくてよいように。ひたすら便利に、簡単に。

そのようにして、人工物質をどんどん開発し、
目先の利便の上に乗っかって私たちは生きてきた。
だからだろうか、ともすれば、
自然物質である重曹やビネガーも、クレームをつければ、
自らの都合のいいように変わってくれるのではないかと、
これまでの頭のどこかで期待している。無意識のうちに。

地球と同じ原理で暮らすことが、
重曹やビネガーを使うことだ。
どうやって命の理を変更するのだ。
そんな力は人間にはないということを、
この際、負けを認めるということを、
そのとき、ご婦人の心に届けたかった。
でも、できなかった。
その悔しさ……これで何日目だろう。
まだうなされている。
まだまだうなされるのだろう。

美しい音楽を聴いても、
友と楽しく笑っても、
どこかで傷が膿むように、
今もうなされている。
重曹と一緒にうなっている。
地球と一緒にうなっている。