大急ぎでお知らせ!

本日3月5日は、
午後9時からテレビ神奈川で、
午後11時からTBS「情熱大陸」で、
辰巳芳子さんが登場します!

局は違いますが、同じ日に2時間出るってすごいかも。
ご本人も、めったないことですから是非、とおっしゃってました。
ファンのみなさま、お見逃しなく! です~。

3月2日(木)一服の幸せ

夜にかかった打ち合わせが、
思ったよりも早めに終わる。
けれども、なんとなく力尽きた感じで、
ふにゃふにゃしながら帰途につく。

おなかがすいているわけではない。
甘いものが欲しいわけでもない。
こんなときに疲れを取るには、
どうしたらいいか少し考え、
久しぶりに抹茶を飲むことにする。

以前、あるお茶商さんに教えていただいた抹茶の点て方は、
全くの実用で、いわゆる茶道の形式にはかなっていないが、
キッチンで確実に準備するには優れている。

30mlほどの白湯が抹茶椀の中で薄緑色のエスプレッソに変わる。
作っている段階で、まず、その色と香りにほっとし、
今度は自分が客となってすべてをいただく。

霧が晴れるように、サーッと疲れがひいていく。
こわばっていた筋肉がほぐれ、深い呼吸が戻ってくる。
古来から賞賛の声やむことのないカロリーゼロの気付け薬は、
しみじみ、美味しいのだった。

これはもはや緑の魔法だ、と思う。
ただこれも、お茶の作用を受け止める体力があればこそで、
体が弱っているときや、だんだん年をとっていったときには、
むしろ焙じ茶の、なんでもない優しさが身にしみるようになるという。

茶福一生。
カメリア・シネンシス(Camellia sinensis(L.)O.Kuntze)という名の、
椿科の常緑の潅木がもたらしてくれる恩恵はまことに限りなく。
縁側がなくても、心の縁側で渋茶をすすり、ひなたぼっこする感じ。
そっと命に寄り添ってくれる、奇跡のフィトケミカルのひとつだ。

3月1日(水)うさとの服

主催の女性が待っていてくれるというので、
とてもありがたく、楽しみに、
とある服の展示会場に足を運ぶ。

うさとの服という。
タイの山の村に生きる女性たちの手で、
コットンやシルク、ヘンプを作り、紡ぎ、染めて織り上げ、
その布をパリ仕込みのクチュールの技術で仕立ててある。

まず、何よりも、
さとううさぶろうさんというデザイナーが生み出す、
それらの服のカッティングのセンスの良さに魅せられた。
オーガニックを追求した服は、素材がよくても体が服の中で泳ぎ、
小柄な体型の人間には、どちらかというと、
むずかしいデザインが多いような気がしていた。

でもここには、体の線にやさしく添い、
民族風に解釈しなくても着こなせる都会的なラインのものもあり、
逆に、ゆったりロハスな、そしてエスニックなラインのものもあり、
各人の趣味に合う服が見つけやすいように、
上手にテイストが分散してある。

さらに驚くのは、
プレタポルテでは使わない要素がちりばめられた、
ディテールの上品さだ。
くるみボタン、ループ留め、ヘムの始末など、
見る人が見ればすぐにわかる、
オートクチュールの世界の技法がたくさん駆使されている。

ここまで洗練されたアジアからの輸入衣料は初めて見た。
しかもオーガニックで、紫檀、黒檀、パパイヤ、藍などを使って、
糸から染めている。手織り地は、女性たちの心のままに織られ、
複雑な、二度と同じ反物はできないという一点物に仕上がる。

この洋服をメンテナンスするのに、
石けんだけでは困っていた、というのが、
今日の出会いのきっかけだった。

蛍光剤入りの合成洗剤などで洗濯すると、
いっぺんで真っ白に色が抜け落ちてしまう自然の服だ。
石けんでナチュラルにケアするのは当然だけれど、
それでも長い間経つうちに、黄ばんだり、ごわついたりと、
元の風合いに保てないことがあるという。

重曹水で洗浄液を作り、そこに少なめの石けんを溶くこと、
そのリンスにはビネガーがよいことなどを説明。
実際に自分も身につけてメンテしてみようと、何着か購入した。

価格も決して高くない。
流行のブティックで買い物することを考えれば、
これだけの手仕事がしてあって、
日本で生産したら、とてもこの価格では釣り合わない。

一緒に会場を訪ねた女性は、
疲れが抜けないと言っていたのに、
試着してそのまま服を脱ぐ気がせず、
なんだか体がほっとして元気になったと喜んでいた。

人がまったき環境に健やかに生きるには、
なんとたくさんの他人に助けていただいていることだろう。
ひとりで生きているなんて、そんなつもりでいるなんて、
着るものひとつ、食べるものひとつとっても、
うそぶくのは世界を知らない子どもだけだ、と、
改めて肝に銘じたことだった。

服用って言葉、知ってますかと主催の女性が問いかける。
もともと、飲む薬より、「着る薬」のほうが上薬だったのです。
だから今も、薬を用いることに「服」という字が残っている。

そんなふうに衣食住、すべての環境が、
人の命を害するのではなく、育む方向に変わるには、
いったいあとどれくらいの道のりを歩めばいいのだろう。

どんなに遠くても、
歩むのですけど。

私たちの代でたどり着けなくても、
次の世代で、その次の世代で、
きっとゴールにたどり着く。

こんな出会いに支えられて、千里の道の何里分かでも、
自らの足で歩む、この道のりが楽しい、と思う。

2月28日(火)琵琶寄せ

海近く、雨の夜、
琵琶の音を聞いている。
平家の滅びたいきさつを。
姫神たちのことのはを。
新月の日に。

抱きかかえ、
琵琶かきならし、
かなしみの物語流る。

ひとり、ふたり、涙にくれ、
小さき人、あたり飛びはね、
さざなみ立て、響き消えゆく。

出発の日。
新しき螺旋の始まり。
久方のえにし手にせむ。

明日あさは、
地図なき遠浅の海、
歩かむ。

波打ち際たどりて、
玉鎮むウラ、
詣らむ。

2月27日(月)解釈

クラウディオ・アバドによる、
ヴィヴァルディ「四季」を聞いてびっくりした。
すごく解釈されているのだ。
これまで聞いたどんな演奏とも違う。

特に「冬」のアレグロにはショックを受けた。
(Violin Concerto in F Minor, RV297 “Winter”:Ⅰ, Allegro Non molto)
ヴァイオリンが刻む細かいイントロの和音、
すべて微妙に調節されて必ず一音だけ、
完全な不協和音が混ぜてある。

それまで聞いていた冬は、
もの悲しさと厳しさを感じる自然の冬だった。
でも、この響きは違う。
精神の冬だ。

狂っている。
いてもたってもいられなくなる。
これが現代人のたたずむ心的冬なのか。
胸に突き刺さって苦しいのに、
中心部分は美しくて、何度も聞かずにはいられない。
ボロボロの音の翼で髪を撫でられているように、
なにかが耳元でざわざわスパークする。

音楽は時間軸に沿って情報を処理するので、
ある意味、言語に似ているといわれる。
ヴィヴァルディは作曲するにあたって、
別にテーマを四季とするつもりはなかった。
一連の曲の流れを聞き、その中に、
自然の移り変わりと相通じる美のパターンを見いだしたのは、
のちの人間たちだ。

アバドは今やそこに、意図して人間そのものを持ち込んだのだろうか。

いや、もしかしたら……。

現代の自然にはもうすでに否応のない「人為」が混じっていることを、
そのまま写し取ってみせただけかもしれない。

この四季は、思い切って下世話な言い方をすれば、
「異常気象」と解釈できるのかもしれない、と思った。
サイエンスの言葉でフラットに叙述される情報として知るのではなく、
芸術によってそれを魂振るごとく感じ取りたいなら、
一度聴いてみるとよいと思う。

本当は、人間の心は美しい。
長く精神の冬を味わい来たる現代人の心も、
芯では美しいはずだと信じている。
少し薬が必要かもしれないけど。
おそらく、毒を含んだアバドの四季はそのひとつ。

すぐそこに春三月、
狂っていてもそれすら織り込みながら、
新しい季節が来ている。

2月26日(日)何もかもかなぐり捨て

一日勉強会。
しかし朝目覚めると、
会の開始予定時間まで70分しかなかった。
まただ。やられた。

この、70分というのが、
目覚めを司る無意識の得も言われぬ芸当で、
その瞬間飛び起き、
「何もかもかなぐり捨てて一生懸命がんばれば」、
ビッタリ予定時刻に間に合って到着すると予測される、
ギリギリの逆算タイムなのだ。
こんなふうにたまに目覚まし時計(これはもっと適切な余裕をもって
セットしている)を無視して眠っていたようなときはいつも。

うーむ、憎い。
憎いぞ自分!

寝ぼけ顔のまま、リュックサックに必要な資料とパソコンを詰めて、
家を飛び出す。とはいえ同じ一つのリュックに、
スタッフ皆さんにお持ちするために昨晩仕込んだ、
いりこ醤油の大きなタッパーも入っているので、
駅の乗り換えも極力飛び跳ねず、体が水平に移動するように、
すり足で小走りに移動する。おばかな忍者みたいだ。

「何もかもかなぐり捨てて一生懸命がんばり」、
予定時刻数分前に会場に到着すると、
もうSatoさんとQさんが玄関先でお待ちだった。
冷たい雨の中、遅刻しなくて本当にヨカッタ……。

勉強会はkaoriiikoさんの新講座に関するブレストに始まり、
充実した内容で進んでいく。ときどきネットにアクセスし、
必要な情報をサーチしながら私もディスカッションに参加する。

パソコンを操作しながら、
右手の親指にかすかなしびれ感を覚える。
原因はわかっている。昨晩、いりこ醤油の準備をしていたとき、
微細ないりこの断片が親指の腹に刺さって抜けなくなったから。

雑味のない、すっきりかつ濃厚なダシ醤油を作りたかったので、
いりこは頭と胴を別にし、頭の後と腹のワタを取りのぞく。
200グラム分のいりこを一匹ずつそのように処理すると、
だいたい160gくらいになる。フライパンで頭と胴を別々にからいりし、
ビンに合わせて詰めてひたひたに醤油を注ぐ。

いりこ醤油は魚と昆布ベースのラーメンつゆ研究に供した。
おおむね好評だったが、残ったいりこがもったいない気がしたので、
夜、帰宅したあとそれと昆布でもう一度ダシを取る。
3リットルほど取れた。しかもしっかり醤油味がついているので、
もうそのまま煮物汁物に使える。今週は出汁リッチだ。

親指のしびれは、夜になっても続いている。
少し熱を帯び、免疫反応をおこしている。
でも朝よりも少ししびれは軽くなっていて、
私の肉に押し込まれたいりこが、
少しずつ溶かされていることを感じた。

これもいりこを食べていることになるのかなあ。
親指で、ゆっくり食べるいりこ。

あと1日もすればこのしびれも消えるのだろう。
たくさんの命をいただいている感謝と痛みを抱きつつ、
はい、確かにおっしゃる通り、
何もかもかなぐり捨てて一生懸命がんばります、と、
無数のお魚に話しかける。
その向こうのプランクトンにも。
そのまた向こうの海と地球にも。