2007年4月25日(水)サルビアバス

サルビアの入浴剤をいただいたので、
重曹を入れたいつものお湯に加えてみた。

子供の頃、サルビアが咲くと、
学校への行き帰り、その赤い花を摘み、
友達と歩きながら甘い蜜を吸った。

サルビアは体を温め、
リラックスさせてくれるそうだ。
冷え性やメノポーズにもよいという。
あの頃の道草の記憶に、
お風呂場で出合うとは思わなかった。

香りは一気に時空をワープさせてくれる。
嗅覚は最も原始的で、
大脳辺縁系に直結しているから、
その刺激は知的な解釈抜きで、
体の反応を呼び起こす。

きっと動物の記憶ってこんな感じ。
連想も解釈もほどこさず、
そのことを体験した時と場所に帰る。

サルビアを吸っていた子供は、
歳月を重ねた今も、
確かにこの中に存在する。
あの花の蜜に似て、
ひっそりと奥深く、
眠っているけれど。

2007年4月20日(金)あたたかな風に吹かれて

静岡県の遠州というのは、
ずいぶん広い地域を指すようだ。

以前訪れた水窪という山中の、
とても美味しいこんにゃくを作っている農家のおばあちゃんは、
このあたりはコメが取れないので、
コンニャクイモや蕎麦をたくさん作るとおっしゃっていた。
天竜がまだ蕩々と流れる大きな姿に変わる前、
最初の小さな川のころ。

かと思うとお茶どころ自慢の大走り茶(おおはしりちゃ:
その年本当に最初の新芽を手摘みした贅沢なお茶)をいただくのも、
静岡ならではの土地の恵みを肌で感じる瞬間だ。

遠州の農業協同組合婦人部委員会で、
重曹とその他の自然物質を使った生活についてお話をした。
100人ほどの、各地域を代表する女性委員さんたちは、
もう掃除に重曹を使っているという人が大半で、
でもなぜそれが掃除という名のリカバリー作業に使えるのか、
重曹が自然界の中でどんな役割を果たしているか、
知っている方はあまりいなかった。

これからは、そのあたりをもっと詳しく、
話していけばいいかもしれない。
そのほうが楽しくなる。
誰であれ、どこであれ、
知った人は足元から世界の見え方が変わる。

目に見えないものを見るのは知の力だもの。
それは言葉によって人から人に渡すことができ、
そのようなことができるのは、人間しかいないのだから。

終わってこだまに乗り、
つなぎのプラットフォームで、
30分ほどひかりを待った。

こだまより速いのはひかり。
ひかりより速いのはのぞみ。
うまいこと考えたもんだよね。
でものぞみより速い車両が出てきたら、
なんて名づけるんだろ。
のぞみよりもっとあえかな、
地上に降り立つ前の……うーん、それは強いていえば、
今この頬にあたる、あたたかな風のような感じかなあ。

いちばん近い言葉は、
“祝福”というんだ。
ゆるしともいう。
ゆらゆらゆれて、
ゆるす、ゆすらぐ、リカバーする、
いきもののかなめ。

それを実現するために、
音よりも光よりももっとのろのろとした、
物質の形で水や鉱物がある。
重曹もその静かな祝福のひとつ、
と考えればいいんじゃないかと思う。

2007年4月13日(金)三度の花見

ふたたび、京都にいる。
この前訪ねたときは肌寒かったが、
今日はいい陽気だ。山辺の桜も見頃。
yamabe
苔の緑も美しく萌え出し、
あたり一面、
春がみずみずしく息づいていた。

夕方、仕事を終え、新幹線に乗るべく南に下る。
この季節、古都は観光で混雑の極み。
宿も取れないほどだが、せめてつかの間の風情、
賀茂川づたいに行ってみようということになった。
桜にはもうギリギリか、少し遅いかな、と運転手さん。
ええ、でも菜の花と水鳥たちも見えるから。
kamogawa
葉桜になりかけの、街中のソメイヨシノ。

コンクリートの飛び石を、
向こう岸から渡ってくる人がいる。
キャッチボールに興じる人。
トランペットを吹く人。
ジョギングをする人。
ぼうっと川面を眺める人。

何が一番思い出に残っているの。
不意の質問に、しばらく答えを探す。

意外にこの賀茂川と三方の山並みかもしれません。
あと、その頃食べたものの味とか。

建物じゃないんだね。

ええ、多くは取り壊されて新しくなっていますし。
懐かしいのは自然物ばかりのような気がします。

それは、私が居ようと去ろうと関係なく、
ずっと続く、この都への無言の贈り物だ。

折しも来日中の中国の首相は、
本日、北嵯峨の農家を訪れたとか。
直接見聞きし、味わった何かが、
人の奥底で発酵し、滋養をとなっていく。
その方にも、京の風景や手触り、味わいが、
じんわり染みこむといいね。ゆっくりと、でいいし、
それ以外ないのだろうから。

そういえば、と、シジミ蝶の話を教えてもらった。
温暖化は確実に進んでいる。
東京より桜が遅いからといって、
この都も例外ではない。

2007年4月10日(火)不信

 検査を信じず
 汝を信じず
 前工程を信じず

とある工場で目にした警句。
長いラインの始まりに掲げてあった。
人と機械が一緒に働くときは、
だいたいの場合、機械の不良よりも、
人の思いこみがエラーを生む。

無人工場を見学したときは、
こういう光景はなかった。
塵芥ゼロの超清浄空間の中、
とほうもなく大きな機械が動いている。
その動作は能に似て、動いたり止まったりを、
最小のエネルギーと時間で舞うようにこなす。
それを、無音のガラス窓の向こう、
防塵服の検査人が見ている。

ここでも、エラーを生むのは人であって、
それも人というのはこの大きさの動物ですとか、
息をしますとか、身動きして埃を落としますとか、
どれも生き物である以上、仕方ないじゃん的なことで、
生産が駄目になってしまう。

汝を信じず、のフレーズがこだまする。
そもそも自分は間違いを持ち込むヤツなんだ、と、
覚悟しましょうと聞こえる。

生き物であるということは、
そういうことなのだろう。
そのことを、愛しくも、悲しくも思う。

2007年4月9日(月)無洗米でリゾット

米袋から米をひとつかみ、
むずとつかんで浅鍋に入れる。
ぱらぱら、全体に散らすように。

重曹みたいな扱いだな、
と思いながらそれを見ている。
重曹をお風呂に入れるみたい。

鍋には魚や貝の残りくずが煮えている。
汁はサフラン、にんにく、ハーブが入り、
複雑なうまみのブイヤベースができている。
そこに米。火加減を弱くして、
くつくつ静かに汁を吸わせる。

こんなことができるのは無洗米だからだ。
研がなくても汁ににごりや粘りを出さないから、
米袋から直接、鍋中に撒いてしまえる。

ぬかをはぎとることでコシヒカリも外国産の米、すなわち、
リゾットなどに向くインディカ種の扱いに近づけることができる、
というのは、ある意味、発見だった。

無洗米にすると、どの銘柄の米も一様な、
特徴のない味になると聞いたことがある。
もともとレストランや弁当のための、
大量調理用に開発された技術だから、
むしろそのほうがいいくらいなのだろう。

気になって鍋の中身を少し混ぜると、
動かしてはいけないといわれる。
そうしていると、やはり粘りが出てきてしまう。

うまく芯の残る魚介のリゾットになった。
ジャポニカ種でも条件を逆手にとれば、
かなり上手にできるんだね。

2007年4月7日(土)ダブル炭水化物

昭和6年から働いているという、
ぼってり重い鋳物鍋で作る鳥鍋に出合う。
名古屋らしいみそ味だった。
torinabe

店の方と八丁みその話になる。
江戸の頃、名古屋城から数えて八丁目に、
二軒の味噌屋があった。
今もその二軒で作るものしか八丁みそと名乗れない、
と聞き、一同、おおいに勉強になる。
この鍋の味の決め手も八丁だという。

最後はきしめんを入れ、
煮詰まり加減のつゆとからんだところを、
ゴハンに乗せて食べる。
これには全員ノックダウン。

こうであればおいしいな、
という組み合わせに正直で、
もろに名より実を取る感じ、であった。

2007年3月31日(土)潟沼

一日経たぬうち、
ニシヘ、ヒガシヘ。
今は鳴子、仙台の先にいる。

火口が陥没してできたのではという、
このあたりの温泉の源とおぼしき湖に行き、
はじっこに歩み寄って湖水をなめる。

舌に残るのはお酢のすっぱさではなく、
独特のじわっと舌を刺す酸味。
なんというか、知っている味でいえば、
イオウの感じがする、と思った。

魚が棲まない水なのだ。
ペーハー2という極度の酸性湖。
青い水にはユスリカが大量発生し、蚊柱が立つ。
今は寒いゆえ、それすらいないが。
katanuma
湖は、鳴子火山の活動により約1100年前に出現したとされる。
湖底からは熱泉ガスや水蒸気が絶えずわき出している。

今は世界的にもめずらしいけれど、この湖は、
原始地球に普通にあった水の姿をよく残していると思った。

そして、ここにこの水があり、
それに触れさせていただいたのだから、
明日、昔の地球の話から始めるのは、
うん、悪くないと思った。

夕方、静かな湖面。鳥も虫もいない。
普通の水生生物がまるでいないからだ。
でも、そこには特別な生き物の連鎖がある。

古細菌の一種である好酸性菌は、
喜んでこの環境に棲んでいるだろうし、
湖の底のイオウを噴き出す熱源の周りには、
温泉微生物がきっとたくさんいるだろう。
腐敗菌がそれらの死骸を分解し、
水中をdetritus(微細有機物粒子)が浮遊する。

夏、セスジユスリカがそれを食べ、湖から舞い上がる。
強酸性の湖はそのようにして浄化される。
腐敗連鎖は分解世界の基本文法だ。

ここにも、シンプルだけど、
自然の循環が働いている。
地球と生き物は、いつもダンスを踊る。