2007年11月28日(木)おいしそう

あなたはおいしそうに見える。
そう言われたらどう思うだろう。

それが女性を敬った相当なほめ言葉だという、
モンゴルの方々と夕食をともにした。
日本にいるときは、
その形容をうっかり直訳で使わないよう、
気をつけているのだそうだ。

セクシーという言葉が近いかもしれない。
でもそれより広い意味。
人に対する讃辞として贈られる。
魅力的と客観評価するよりも、
話し手の、相手に向かう心のエネルギーが、
感じられる言葉だ。

おいしそう、と言える人が、
身の周りに誰かいるか考えた。
また、自分はおいしそうか、
ということも考えた。

するとそのフィルターを通じて、
これまで見たこともない景色が立ち上がり、
愕然とした。

ああ、これはハンターの目だ。

男も女も狩る者としての記憶を、
民族のDNAと文化に強く刻み込んだ人々の視点。

おいしそうということは、
良い獲物になりうることを指し、
良い獲物になりうるものは見る者を惹きつける。

そういえば、美という字は、
大きい羊なのだった。
美はすでにその成り立ちに、
「おいしそう」を含んでいる。

私たちの美意識、
たとえば花鳥風月的なものと美の原義は、
実はかなり異なる。

たぶん、長い時間をかけて、
獲物は愛でる物に変化したのだろう。
慈しみ感じ取る対象として、
いうなれば“愛物”に。

その変化の中で得たものもあるけれど、
失ったものもあるなあ、と思った。

おいしそう、を忘れないことで、
美のバランスがちょっとよくなる気がする。
生きるために大事なこと、必要なことだと、
切実さをもって求められる気がする。

2007年10月6日(土)ものから悟るハナシ

山形県長井市の小桜館を訪問。
明治時代の貴重な洋風建築で、
地元の人々が大事に手入れし、使っている。
この歴史的建造物の中で、
集会やダンス教室、結婚式もOKなのだ。

カレンさんのレシピで木床を磨き、
白いしっくいの壁の汚れは、
そっと重曹で落とす。
会話するように。

オマエ、いつからそこにいるの?
きっと誰かの手についてたんだね。

ああ、少し、はなれ出した。

しっくいの、その位置から動けなかったものが、
重曹に巻き込まれて、はなし始める。

ワタシは、小さな子供でした。
お母さんに連れられて、小桜館にやってきた。
ママたちの習い事の間、ちょっと退屈で、
耳をかいたり、鼻をさわったり。
そのあと壁にもたれたの。

しっくいは冷たくて、しっとりと気持ちよくて、
おでこをくっつけても誰も怒らなかった。
ぺたぺた触った。手のひらも気持ちよかった。

そうやってワタシは壁に吸い込まれ、
ここに残っていた。
ホコリがつき、ゆっくりと黒ずんで、
手のひらの形、おでこの跡に浮き上がった。

でも今、溶けて布に移っていき、
あっちのシンクでゆすいだら、
あとは水に乗って地球に還っていくから、
そろそろサヨナラ。

そうやってあちこちで、
短いおはなしが終わる…なんてモノ語りを、
掃除しながらすっと想像してしまうくらい、
幾重もの陰影を感じるすてきな建物だった。

町を離れる前に、
市民の生ゴミを堆肥に農家が野菜を作るという、
モデルプランの産直市場に寄った。
小さなあけびがあって、
西の人は中身を食べるが、
こちらでは皮を食べるのだと教えてもらった。
akebi01
akebi02
本当かしら、と一袋買い、
きんぴら風に炒めて食べてみた。
ほの苦くてとろっとやわらかくて、
懐かしい、でも体験したことのない、
野生的な味だった。

こういうものが昔から食べられている土地だ。
爾来、考え方も大人なのかもしれない。

2007年9月27日(木)それゆけ、シンボルタワー!

何年ぶりだろう。
東京タワーに上った。
Tタワー
リノリウムの床は白っぽく、つやつやしていて、
マスコットのぬいぐるみから石やビーズの雑貨屋まで、
記憶の中のタワーよりずっと清潔でモダンだった。

追加料金のエレベータに乗り、
行けるところまで昇った。
東京中の光が全部足もとに見渡せる。

ひときわ明るいのは信号機だ。
電球から発光ダイオードに置き換わった光は、
LEDの特性だろう、またたかず、安定した光源となって、
数限りなく視野に入ってくる。

もうひとつは街灯。
水銀灯は、目立たないが、路地から鋭く白い光を放っている。
ナトリウム灯は、大きめの車道にたくさん設置されていて、
やわらかな曲線の高速道路を、
ぼんやりとしたオレンジ色の規則正しい光列で飾っている。

地上に降り、坂道を歩きながら、
明るいタワーからは、あるものが消えたなあと思った。
消えたというよりも、そっと隠されたというべきか。

それは、ものがなしさのようなものだ。
むきだしの。

東京のシンボルとされ、
一度は行ってみなくちゃと言われながら、
行けばそこにあるのは、
どこか縁日の出店の子供だましのような、
キッチュなお土産物ばかり。

本当は電波塔だもの、
あらゆる幻を発するのが役目。
それ自体はからっぽで、
鉄の骨組みを風が吹き抜ける。

なにかがあると思って行くから、
なにもないことにがっかりした。
かたどるよすがのないお土産は、
なにを選んでもニセモノっぽかった。

東京タワーのその感じは、
ある時代の東京にぴったりだった。
今は全然違うけどね。

でも、今、明るくけなげに老朽化に耐えている、
その姿も、なにかに似ているんだ。

2007年9月24日(月)ココニイルヨ

生まれて初めて、
きのこ狩りというものに、
参加させていただいた。

強烈な体験で、
そのあと目に入るもの入るもの、
きのこに見える。

今まで眼の前にあっても気づかなかっただろうに、
土や木から飛び出た形状のものには、
いまや即座におや、と見入ってしまうのだ。
この状態、いつまで続く。

tengu
天狗三兄弟。
左のふたつは若いベニテングタケ。
右のはふつうのテングタケ。

もうひとつ、タマゴタケの成長も。
タマゴ

それにしても、
ポコポコ、ポコポコ、
食べられるきのこも猛毒のきのこも、
おかまいなしにあちこちから顔をのぞかせ、
ぎゅうぎゅうと菌糸をはりめぐらせ…。

秋は偉大な腐食の季節、
でもあるのだなあ。

林の中、下を向いて、
きのこきのこと探していたら、
みなの声が遠くなってきて、
ああ、戻らなくては、と思った。

振り返ると目の前に楢の木。
根元近くに、
きれいな黒のフリルをまとっている。

フリル?

じっと見入って、
そっと取っていった。
見ていただいたら、
舞茸だった。

野生の香りは気高くて、
息を吸い込むたび湿った森を思い出した。
それは、家に帰り着くまでずっと、
動く鉄の箱の中を幸福で満たし続けた。

2007年9月21日(金)雷にて候由候

近江のミホミュージアム。
静かな山中にある。
エントランスを入るとすぐ、
真正面の大ガラスを屏風絵に見立てた、
優雅な借景が目に飛びこんでくる。
museum
10年前に建てられた私設美術館だが、
ルーヴルの新館を設計したI.M.Peiによる、
印象的な直線の構造デザインに導かれて、
いつのまにか古代東洋美術の世界に入っていく。

織田信長の直筆書状のひとつを、
初めて間近に見ることができた。
季節の挨拶の短い手紙。
ふわり、丸くやわらかな筆さばきで、
荒々しい武将の風を全く感じさせない。
むしろ貴族的とさえ思うような字だった。

帰路途中、
源義経元服の地といわれる場所を通りかかる。
アスファルトの道路端にぽつんと立つ、
草地の中の細い石の柱だった。
時代は安土桃山からもっとさかのぼり。

青葉も、雷も、その頃から変わらない、
西日本の風土そのものだ。
日牟禮八幡宮から琵琶湖を眺める。
biwako
秋というにはまだ暑く、
光の量も多い、遅い午後。

一日ずっと、
不思議なきらめきに包まれていると感じていた。
山を下りる途中に、それは周りの樹木の、
いろいろな葉っぱからの照り返しであることに気づいた。
全く認識していなかった。
照葉樹林とは、なんと美しい植生なのだろう。
かつて北や東の国から来た者は、
まずその輝きに圧倒されただろう。

古代の日本人が、
花よりも葉を愛したわけが、
ちょっとだけわかった気がした。

昼も夜も、
夏も冬も、
いつでも分け入れば、
ダイヤのような光の粒に包まれる。
常緑広葉樹林帯。
まぶしい森。
キラキラの森。

息を吸い込むと、
忘れていた深い緑の香りがした。

2007年9月8日(土)閉ざすのではなく

今度の台風はずいぶんたくさんの雨を降らせた。
もし昨日だったら大変だったろうと思いながら、
一日おいて、正常ダイヤに戻った新幹線に乗る。

思っていたよりも一本早く出発する便に、
ちょうど間に合うタイミング。
ドアが開いて、思わずつられた。

いいや、自由席なら空いているだろうと、
気まぐれを起こしたものの、
あいにくきれいに満席。
さて、どうしたものだろう。

ラフな格好なら、
学生のときからそうしているように、
迷わず最後部の座席と車両の壁との隙間、
そう、トランクなどがよく入れてあるところに、
すぽっと入り込んでキャンプを決め込むのだけれど、
今日の、麻のワンピースでは無理だ。
立っているしかない。

デッキに移動して、
なるべく人の動きをじゃましない場所に立つ。
これから2時間ちょっと。
ならばひさしぶりに、
軽い瞑想モードでいこうか。

iPodを友達に逆腹式呼吸。
五感を刺激するさまざまなノイズを鎮める。
いってみれば、晴れた月の夜に散歩している感じ。
明かりひとつで周りを見ているような、
ちょっと変わったモードに移行する。

1時間を過ぎたころ、
どやどやとオジサマたちがあふれてきた。
それも関係ない、と思っていたが、
呼吸が苦しくなってきたので、
ふうっと“ログオフ”。

誰もたばこなど吸っていなくても、
人が増えればその場の空気に混じるものがある。

その人がそれまで暮らしてきた方法、
通ってきた場所、過ごしてきた時間が、
空間を共有することで他者の中にも入ってくる。

それをシャットアウトするのが上手になったのが、
現代人という人種かもしれない。
冷暖房の効率を上げる気密住宅のように。
けれど本当は台風のように、
あたたかいところからむくむくと湧き起こり、
物々すべて洗い流し、吹き起こす力、
それをこそ装備したいものだ、
と、くしゃみをしつつ思う。

温暖化の未来。
人も風土の申し子なれば、
せめてそのように進化せんことを。

2007年9月1日(土)ただよう鉄

夜中の、
しんとした湯船にひとり浸かる。
炭酸水素ナトリウムイオン濃度523mg/lの天然温泉。
他にも無数の陰陽のイオンが溶けている。

お湯は最初熱く感じるけれども、
手足を入れてしばらく経つと、
なんともいえないまろやかさにくるまれ、
力まなくても耐えられるようになる。

鉄分の多い赤湯。
湯船のへりのリップルマークも赤。
湯の口から流れ出す新鮮な湯を、
すくいとって顔に当てる。

肌がシュクッと引き締まる感じを覚え、
あ、膜が張ったなと思う。
普通なら、洗顔で石けんを使うと、
水ですすいだ瞬間に起こる感覚だけれども、
ここではそれが少し遅く、しかもやさしい。

おもしろいなあ。
土地の自然に遊んでもらっているようだ。
すっぱだかで。
全身全霊で。

この湯のカミサマは、
鉄と重曹をご重用。
まこと私たちの血に似ている。
鉄が酸素を運び入れ、
重曹が水素を運び出す。

しかし、アルカリ溶液中で、
鉄が溶けているのは容易ではないはず、
と思っていたら、翌朝、
透明の器に注いでみてわかった。

鉄はまさに、固まりかけの血液のように、
赤茶色の浮遊物となってふわふわと湯中を踊り、
やがて静かに器の底に落ち着いた。

このように沈んでいってしまった鉄を追いかけて、
生き物は食物連鎖を繰り返しているとも言える。
やはりそう簡単ではないんだなあ。

昔々の地球のことと、
私たちが今ここに、
こういう姿で存在しているわけを、
ものすごい勢いで聞かされている気がして、
さっき見た鉄分よろしく、
私という一個体のささやかな思念も、
しばしそのあたたかい赤い源泉に漂う。