早朝、空港に向かう。
本とパソコンと日焼け止めと。
最近はどこに行くにもこの組合せだ。
重いから、どれかひとつやめようと思っても、
どれもはずせなくて結局このパターンに戻る。
ホテルでは、
モジュラージャック探しが最初の仕事。
もっとも今は館内LAN完備が増え、
そうでなくても携帯の通信ボードを突っ込んでいるので、
以前ほど部屋に入ったあとの“儀式”は複雑でなくなった。
シグナルが明滅し、ネット接続を知らせる。
メールをチェックし、親しい人たちのブログを一周し、
サイトを覗いて一安心する。
どこにいても、何をしていても、
二重、三重の文脈の中で生きている。
そんなふうにしていると、
だんだん心落ち着きのない人間ができあがると、
心配くださる向きがないわけではないが、
案外私たちの精神は丈夫なもので、
その程度の多重性で壊れたりはしない。
むしろとても楽しんでいる、と思う。
少なくともそうしている仲間たちはみんな。
たとえ自分の関わる世界のどれかが、
ヤラレタ、しんどいな、と感じさせる状況に陥っても、
その瞬間、別のどこかの世界では、
全然違う文脈の何かが祝福されつつ進んでいて、
コレもありだけどソレもあり、とリアルに知っていることが、
目の前のショックを否応なく相対化する。
別の方向から見ると、
うれしいことも相対化しちゃうのだけれど。
そんなふうにして、
喜びも悲しみも薄れていくことを、
この世は空なのですよ、と説いた方は、
それでよい、とおっしゃるかもしれないけど、
それだと感情の大嵐にもまれる流行のドラマが、
面白く感じられなくなってしまいます、と、
ちょっとは妙な言いがかりをつけてみるのであった。
サラサラ、サラリ、沙羅双樹。
それでいいのですけど。