子どもじみよう

壊れてしまった4つの原子炉は、
事故から4カ月経とうとしている今も、
ダラダラと放射性物質を出し続けている。

あれから、何一つ収められていない。
汚染を止められない。
弁が自動だったのに手動にしたとか、
吸着性能がどうだとか、
毎日、なんらかのニュースが流れるが、
本当に問題なのはそこではないだろう。

マグマ状の燃料は、
今どこにある?

わかっていながら言わないのが、
いつもの手だ。そのようにすれば、
世論が軟着陸すると思っているのだろうか。
それほど私たちは、忘れやすく、愚かだと、
思われているのだろうか。

今の快楽を長続きさせるために、
未来の犠牲を何とも思わない、
あえて知らせなければうまく騙される、
「かわいい」民草だと思われていると思うと、
腹の底から怒りがわいてくる。

私たちが目をそらさずに見つめるべきなのは、
電力予報ではなく、増税論議でもなく、
10万年もの間、保管すべき放射性廃棄物という、
だれも引き受けようのない最悪のゴミを、
捨て場所もないのに作り続けている、
原発というシステムを終わりにすることだ。

そこには、どんな人間の都合も通用しない。
景気? 自治体? エネルギー需要?
そのようなものは自然の都合の前には無力だ。

ことに宇宙を創り上げてきた、
激しい自然の側にしてみれば、
始末も考えずに突き進み、
「そのうちなんとかなるだろう」と、
「誰かがなんとかしてくれるだろう」と、
タカをくくる私たちの傲慢さが、
片腹痛いに違いない。

環を作ること。
循環し、再生し、次の命を育む営みの、
ささやかな一部になろうとすること。

それ以外のあらゆる「大人の都合」に、
「NO!」という。

まずはそこから始めようと思う。
ものわかりの悪い、
子どもじみた人間として。