携帯が鳴る。
騒がしい場所から怒鳴り声。
今パソコンの前にいるか、と訊ねられて、
外を歩いていたところだったので、いいやと答えた。
至急、調べて教えてほしいことがあるという。
多少むりやり道ばたに座り込み、
携帯をパソコンにつないでログオンする。
昔の書物の名前、その著者、そして関連する人物の生年。
すべて検索すれば一発で出てくること。
ありがとうとタメイキをつき、相手は電話を切った。
私もラップトップを閉じ、数秒後に自動ログアウトした。
記憶ということを考えるとき、やがてこのような検索は、
各人の頭に直結する端末がアシストするようになるだろう。
そのとき、何をしてその情報を所有している、
と言うようになるだろう。全部を諳んじていることか。
しかしそのことが検索よりも有利な状況は、
自由連想(もちろんそれは非常に重要なこと)が、
働く以外にあるだろうか。
すべての過去ログに自由にアクセスできるなら、
ますます注視されるのは、それを閲覧して何を生み出したか、
どんな行動をして、どのような成果に結んでいるか、
個々人の思索の純粋に現象化した部分だろう。
だって知らなかったもん、が通用しない時代というのは、
こわいけれどもおもしろい。
もちろんこの世に現れるイヴェント全てが、
それを起こした本質そのものからは切り離された、
ただの現象であることを百も承知で、
書かれたもの=ログの海を泳ぐ覚悟が必要だけれど。