今日は下の子供の参観日。
一日参観なので、いつ行っても構わない。
だから、2時間ほど学校へ行き、子供たちの様子をうかがった。
なかなかどの子供たちも良くなっていると思うような内容で、私はさほど文句はない。
充分だと感じてない保護者もいるのだけど、私はパーフェクトは望んでいないので、これで充分なのだ。
何もかも揃えてしまうと、子供たちは多分、自分の頭で考えなくなる。
だから、少し足りない・・・・という位が実は充分なのだと思っている。
不満とか、反抗心ってのも大切な人生のエッセンスなので、多少の不足はあって然り、という考え。
例えば、食事の用意のお手伝いを我が家では、させているのだけど、お味噌汁やご飯を運ぶとき、お盆を使わせず、手で一つ一つ運ばせている。
1度で終わることをわざと数回に分けてさせることの意味は「非効率」。
非効率的なことをさせている訳は、当然、考えさせるという作業に他ならない。
お盆で運ぶと、下手をすると1回で作業は終わり、子供たちの手伝いを頼むことがなくなることもある。
でも、例え、両手に持っても、4人分のお茶碗は2回、お味噌汁なんかは1個ずつしか運べないから、4回往復することになる。
そして、持って行った先のテーブルで、配膳をするのだけど、箸置きを置いて、おかずは右側、お茶碗は左・・・・と言うように、正しい位置にものを置くようにさせる。
そして、非効率的なやり方は、無駄な数分を生み、その時間に子供と話をしたり、触れあったりができるというわけなのだ・・・・・。
この「非効率」的な時間は、だから、家族のちょっとした会話の時間ともなり、誰かが来なければ、他の誰かの仕事が増え、迷惑になったりもする・・・・家族の一員の確認の時間でもあるのかもしれない。
一見、非効率的なやり方の中にある、実は大切なものを、現代人は失っていると、こうした瞬間に思うのだ。
家庭の中にそこここに転がっている、家族との会話やふれ合い、そんなものが「効率的」であることや「便利」であることと引き換えに失われている。
そうそう、我が家では、ご飯も炊飯器では炊かない・・・・・
活力鍋か、土鍋。
正しく浸水させて、火の力で炊き上げたご飯は、どんなに優れた炊飯器より美味しく炊き上がる。デジタルではじけない、そんな諸々を、もう一度、家庭の中で見直すべきじゃないのかな?
そういう家族との心通じる環境で育った子供は、多分、秋葉原で刃物を振り回して他人の命を奪おうなどとは考えないと思うのだ。
人とのつながりを知っていれば、一度離れても、また誰かと繋ごうとするだろう。
そして繋がる人がいれば、残虐性はかなり、自分の中で弱体化する。
家庭の持つ役割・・・・くつろぐ事、趣味を謳歌するところ、体を休めるところ、家族と楽しむところ・・・・・・色々な側面を持っているだろうけど、その全てであり、自分だけの側面もあるはずだ。
家庭が家庭としての役割を思い出し、機能し始めれば、あんな犯罪は減少するだろうと想像できる。
昔には戻れないから、今ある条件で、これからのあり方を考えなければ、未来は暗いものになったりするのではないだろうか?
こんな時代だからこそ、家庭の果たす役割はとても重要になっていると思う。
効率ばかり追っていた20世紀。
21世紀は立ち位置と、存在を確認しながら、進んでいこう。
みんなで!