子供を捨てたくなる気持ち(5/9)

世間を賑わせているあの話題・・・
そう、「赤ちゃんポスト」。
今触れなくてもいいかも・・・とは思ったんだけど、子供を持つ母として、あの話題に心揺れないワケがない。
気になってしょうがない、と言ったほうが正しい。

子育てしてたら、子供を捨てたい・・・そんな気持ちの一つや二つ、いや、もっと・・・多分、自分も死んじゃいたいような気持ちになることさえ多々あるんじゃないかと思う。
私は、子供が小さな頃、どこかで子供が殺されたり、事故にあったり・・・そんなニュースを見ると、自分の子供に重ねあわさない日はなかった。
子供を殺す想像、子供が事故で死ぬ想像・・・それは考えてはいけない不吉なことだからこそ、小さな命を抱きながら、考えない日はなかった・・・。
「そうなったらどうしよう」と、心を毎日かすめていく不安定な感情を無視はできなかった・・・・。

子供ができにくい体質の私は、流産もしたことがあるし、妊娠してからも、切迫流産で入院したり・・・なかなか子供を作ると言うのは大変なことだと実感した一人・・・。
楽々と、健康に生んでいく知人や友人を見ながら「何で私はこうなんだろう・・・」と、めちゃくちゃ凹むこと、ありました。
健康な人がうらやましくて、元気な子供がうらやましくて、そうでない自分がとても惨めだな・・・と・・・。

どうしても相方との子供が欲しくて・・・また、一人産まれると、兄弟を作ってあげたくて・・・文字にすると押し付けがましいけど、そんな気持ちに自然になって、それで恵まれた子宝だった。
だから、かけがえないし、ものすごく大切と思っているのに、それでも、陰湿な考えは子育て中はいつも隣り合わせにいた・・・。

今は子供も大きくなって、心配の内容も変わってきたけど、あの、子供と自分だけの切羽詰ったような時間は今思い出しても、相当に恐ろしい時間だったように思う。
一歩間違えば、自分がやっていたかもしれない事件がニュースで流れる時、いつか私もやってしまうかも・・・そんな気持ちで居心地の悪い時間を過ごしたものだ。

特に、子供が熱出して、夜に相方もいなくて2人っきりだったりすると、恐怖で身がすくみそうな、その場を逃げ出してしまいたいような何ともいえない弱気な自分を垣間見たものだ。(このあたり、2人目になると、見極めができて・・・・相当手抜きをしても大丈夫ってことに気付き、ついに1人目も結構手を抜き始めちゃう訳なんだけど・・・・一人っ子だったら、今も、緊張はある意味続いていたかも知れない・・・・)

私がバランスを保てたのは、まず仕事のおかげ。
まだ、フルタイムではなかったけど、仕事を再開したから、1日のうち、子供のことをまるで考えない時間が嫌でもできてくる・・・。
仕事に集中すると、そんなこと考えていられない・・・。
だから、仕事のストレスが子供でリフレッシュ、子育てのストレスが仕事でリフレッシュ・・・・そんな具合に回り始め、数年間を乗り切った。
まあ、今も思うのは、相当に両立は大変だった。
寝られない、睡眠不足は当たり前田のクラッカーな状態で、よくも生きてたもんだと思う・・・。
でも、私にとってはどちらも大切な時間だった。
がむしゃらに、仕事の量を増やしさえしていた・・・何だったんだろう・・・・何か、休んでいると、恐怖で押しつぶされそうで恐かったのかもしれない・・・。
頭に仕事のことを詰め込んでおかないと、余計なことを考えて実行しそうな自分が恐くて・・・ストップをかける為だったような気がする・・・。

ここまで書くと、ものすご~く暗い子育てを想像しそうなお話だけど、でも、別に子育てが嫌だったわけじゃないし、子供は大好きで、なかなかできなかったりいろんなトラブルがあったから、もう、蝶よ花よと・・・・な状態で可愛くてしょうがなかったんだけどね。
これを「愛している」と言う状態でなくして、何と呼べばいいのか、そのほうが分からない!!!
周囲から見れば、相当に親ばかで、アーパーなファミリーに見えたことでしょう。
その頃の自分達にもし、今、会ったら嫌いかもしれない。
我ながら、うれしさのあまり、バカ丸出しだった・・・と、思う。
でも、他人から一見幸せそうに見えても、そういうふと心をよぎる「逢魔が刻」のような時間はどんな家族にもきっとあって、上手く乗り切れれば年をとりながら、楽しい子供の成長を見ていくことができるのだけど・・・・。
不幸にも、魔に捕まってしまう人たちもやはり、確実にいるのだ・・・・。

ずーっと前にも書いたけど、そういうことから守ってくれるのは、やっぱり「人」との繋がり・・・・。
信頼や友情や愛情や・・・・・そんな「善」の人の気持ちはバリアになってくれる・・・・確実に。
私が自分の子供を殺せば、相方も、この子の祖父母、叔父、叔母、従姉も、みんな悲しむと思う。
私の好きな人たち、子供のことを可愛がってくれる人たちを悲しませるわけにはいかない・・・という、冷静な気持ちがいつもクールダウンさせてくれていた。
何より、愛しいこの子にもう、2度と会えなくなる・・・そう思うことができていたから、殺さずに、虐待せずにすんでいたんだと思う。
その時の自分の生活がとても幸せで、失いたくないものだったから、持ちこたえられたんだね・・・・足りない柱は他の人が支えてくれていた・・・今振り返ると・・・。
仕事は立つ為の場所であり、くつろぐ場所は家庭であり、差し伸べてくれたたくさんの人の手は、私を後ろに向かせなかった。

その頃の私に今の私が何かアドバイスできるとしたら、やっぱ、重曹を使うことと、食生活のノウハウかな・・。

この2つを知って、各段に生活が楽しくなった。
子供がもっと小さな時に・・・・いや、結婚する前に知っていたらと思う知識だ。

ナチュラルな生活に変えて、家族は近くなった・・・子供も相方も、家事に加わって、食事の批評をしてくれて、わいわい食べる。
作るのも楽しい・・・・そんな今の生活のヒントを教えてあげたいと思う。
子育てももっともっと楽になるからだ。

そんな話をしていると「あの人は自慢話ばかりをするから嫌な人」と、かつて陰口を言われたこともあるんだけど、それも平気。
努力をして手に入れたものは、そんなことでは崩れないし、最近は本当に、誰に何を言われてもこたえなくなっちゃったなぁ・・・。
昔は、中傷なんかされたら、悲しくて寝られないこともあったというのに・・・・。
オバサンになったって事かもしれないけど、鈍感になったと言うのとも違う・・・これも時の変化かな。
でも、苦しくても、過ぎてしまえばそんな風に、ただの思い出の一つとして語ることさえできる程度のものなんだ。
子供はいずれ、手を離れる・・・。

ポストに赤ちゃんを入れる人は、こんな幸せを享受できない人だ・・・。
ひどい人だとか、人間味がない人だ・・・或いは可哀想な人だ、と、マスコミは言うけれど・・・私は不幸になってしまう人だ、と思う。
可哀想とか残酷なんてことは思わない。

今、育てられない事情はあるんだろう。
でも、妊娠もできないかもしれないと不安で押しつぶされそうな人より、産む幸せを知っている人なんだ、と気付いて欲しい。
そして、行政でもなんでも、力を借りて育てていけば、今度は育てていける幸せを得ることができる。
それは、すごい幸せだ。
その幸せを、自分から捨てるのだから・・・。
考え方や、生き方、方向転換をして一歩踏み出せば何かが変わるかもしれないのに・・・。
自分と血の繋がった命を人に託してしまう選択をしてしまうなんて、空しくはないんだろうか?
そんな幸せと引き換えにしてしまえるほどの事情ってどんななんだろうか・・・?
そういうことをしてしまった自分と一生向き合って行かなくてはならない、傷つけた子供のことを背負わなくてはならない・・・・・。
でも、それでも、殺してしまうこと、殺されてしまうよりは私は希望があると思うのだ。

赤ちゃんポストは賛否両論ある・・・・私は賛成派。
子供を殺さない為の、子供が殺されない為の、最後のシェルターだと思うから・・・・。
そして、生きてさえいれば、人間としてやり直せる瞬間はきっと訪れると思うから・・・・。
その時は間違いなく、チャンスを掴んで幸せになって欲しい。

本当の本当は、作ったけど、誰も利用しませんでした・・・・と言う報告が、みんなうれしいはずなんだ。
作った張本人がきっとそう望んでいるはずなんだと思う。

捨てても、捨てられても、血は繋がっていて、親子なんだもの・・・どこかで生きている、親子なんだもの。
そんなことは理想論かもしれないけれど、色々なもの全てにクールに処理できるほど、人間は心をまだコントロールできる進化を遂げてはいないと思うのだ。
これからも、血が流れている限り、そうは人間はなれないんじゃないかと思う。
そんな感情をなくしてしまったら、機械と同じになってしまう。
子供を捨てたくなる気持ち、も、子供を愛する気持ち、も、根は同じ・・・。
だったら時間がかかっても、解決方法はきっとある。
あきらめない限り・・・。