GW真っ只中、私は秋葉原にいる。
何でって言われても・・・・いるったらいるのっ(笑)
特にすごかった・・・人出が・・・。
家族連れからオタクの方々、コスプレに、どっかからアキバアイドルの歌声も響いてきます。
カップルも、お年寄りだっているし、秋葉原に住んでる人だっているんだから。
悪い意味ではなく、こうも何もかも違う人間がしっちゃかめっちゃかに入り乱れてる街は、面白いとしか言えない。
価値観、年収、職業、性別、年齢・・・・きっと同じ人なんてそうはいないだろう。
もしかしたら、犯罪者も案外混じってるんじゃないかな。
最近思うこと・・・・
以前、知り合いで「子供といるときだけは明るく振舞える」と言った人がいたけれど、そんな狭いスパンで生きてたら、きっと人生は狭くて窮屈なものになってしまうんじゃないかと思う。
それは、言い換えれば、「子供くらいレベルの低い精神性を持った人種としか上手く付き合えない」と言うことで、とどのつまり、自分は精神的レベルが子供レベルで低い部分が多いと言うことだ。
なので、同年代や年上、もしくは違う価値観を持った人間の群れの中で渡り合っていけないと言うこと・・・。
そう言う人に限って、自分は純粋で周りがひどいと言うけれど(被害妄想)、客観的に見れば、ただ、一部精神的に未発達で、浮いてしまうことが多いと言うことなんだよね。
周りは普通にしているだけ・・・・。
子供は面白い。
でも、大人になった子供レベルの精神状態の人間は面白いでは済まなくて、時として、迷惑で醜悪だ。
自分の中にもそんな部分がある。
だから、これからずっと、上手に飼いならしていかなくてはならない部分でもある。
この年になると、過去の経験の中で、まるきり関係ないものも、リンクすることがあるけれど・・・・
司書の資格を取る講習会で言われたのは「必要なのは大らかさと緻密さ、ミクロとマクロなんです」と言うこと。
どっちかだけの力を持っていてもアンバランスと言うこと。
大人とだけ付き合うこともできないし、子供とだけ付き合っていくこともできない。
いずれ自分は大人になり、年老いていくのだから・・・。
例えば、巷で流行ってる「鈍感力」とは、緻密さの上に成り立ったものだから、ただの「鈍感」とは意味が違う。
ただの「鈍感」は、迷惑だろうなあ・・・多分・・・。
けど、だから「敏感」がいいのかって言ったら、それはそれで、随分とギスギスした社会になりそうだね。
両極端などちらもの感性を持とうと言うことが、結局はこの本の中の主題だな、と思う。
この間「老人力」とかも流行ったりしてたよね。
あれもそう、「老人の力」なわけではなく、年を重ねた人の持つ「理解力」を活かそうと言うことに他ならない。
どちらも読んだけど、あ、趣旨は結構同じだな、と思ったの。
他にも「負け犬」とかもね・・・・。
立ち位置が違うだけで、同じ社会の中の出来事。
世界は、色々な人で成り立っている。
私が鳥肌が立つくらい嫌いな人も、家族や仲間も、ただ通りすがりの顔も覚えていないたくさんの人達も、地球の裏側に住んでいる言葉や習慣の違う人達も、地球の愛すべき子供達なんだよね。
私が嫌いであろうとなかろうと、また私を批評したり悪く言ったりする人達も、皆等しく地球の上に立ってる「ニンゲン」という生き物。
植物や動物や・・・たくさんのものが地球にはひしめき合ってる。
どれも、自然に生まれ、地球に愛されている。
で、なければ、産まれてなどこれないのだから。
そう思えば、深呼吸ができる。
そう実感させてくれる街が、この秋葉原かもしれない。
違う価値観、奇妙なファッション、へえと思うものも、ぎぇーと思うものも、入り乱れて・・・好奇心に駆られたり、嫌悪感を抱いたり・・・・・そんなくるくる変わる自分の心を見つめながら、鍛えられるところ・・・。
少しずつ、自分の心を広げる努力を、まだしてる幼い自分も、ここに来ると、見つけることができる。
どの位、人間は自分の知らない自分を抱えてるんだろう・・・・掘り出すには、「経験」・・・・それしかないんだろうね。