どこかにあるもの、ないもの(3/5)

未だに、自分探しをしているいい年の人がいる。
何をやっても続かなくて、やっていけない。
結局親に頼る。
そんな人たちの話を友人としていた。
現実にいるのだ・・・そう言う人。
自分のお尻をふけない人。
友人の周りにも、私の周りにも・・・。

今、母親をやっていて、良くそう思う。
子供は親の鏡・・とはよく言ったもので、我が家の子供たちもまさにそう!
片づけをうるさく言わなかったので、未だにへたっぴだ。
これは私のせいだと反省する。
これからぼちぼち教えていかなくてはならない。
小学生で既に、いろいろと問題を起こす子供が何人か周囲にいる。
必ず環境が病んでいる。
その親はかなり・・・私の目から見れば未熟で、成長しきれていないように見える。
きちんと挨拶もできなければ、(だったらいっそ・・・)適当に無視することもできない。人まねやいい加減は、20代でやめてほしいものだ。
けっこう、こんな風に、知り合いの中でも・・・ある。
この人、本当に正確なところ掴んでないナとか、なぜ真理もないのにそういう行動をするのか・・・分からなくて、不思議に思うこともある。
家族や自分が問題を持っていても、根本的に解決する気がなかったり、やり方を考えようともしないところがある人もいて、そう言う場合、どんなに一生懸命になってもツボが違うから、効かないのだ。
努力が実らないタイプ・・・・数年前の私もこのタイプだった。
だから、このタイプは、その部分を見せつけられると、より醜悪に見える。
ここまで良くても、そこからはもう少し自分で考えないとだめだろうな、と思うことも多々ある。
結局は、自分の頭で考えることをできない人が「頭の悪い人」という認識を私の中に植えつける。
例え、考え方が違っていて、交わらなくても、きちんと自分のスタンスを保ってる人とは、対等にまじめな話を適度な距離でできるものなんだな。
子供を持ったら嫌でも「親修行」しなくてはならないのに、それから逃げて、いつまでも「男」や「女」だけであろうとしたり、10代の子供のように自分探しをしている場合じゃない。
幸せの青い鳥、は、そうして変な方向を向けばあっという間に離れていってしまうのに・・・。
夢を持とうと、男であろうと女であろうと、もうひとつの「親」という肩書きを決して蔑にしてはいけない。
「不幸」を口にする人は、いつも不幸になりたがってる。
「幸せ」だと不安なのだ。
それも過去の自分の中にいたりする。

今は素直に「幸せ」でいたいと思い、それを守るために重くてもいろんなものを引きずり、おかしなものとは戦う。
幸せは、誰かがくれるものじゃなくて、自分で努力して築き上げるものなんだと、この年になって実感として分かってきた。
PCに向かい、家族のことをくっちゃべる事ができる・・・重曹の話をし、食べ物のことを考える・・・これらすべて、とても幸せなことだね。

不幸になるのは簡単だ。
子供や家族を大切にせず、自分の本能のままに、思いやりを持たずに、毎日汚い言葉で遣り取りし、毒づけばいい・・・。
ご飯を作らず、何が起きようとも全部他人のせい。
重箱の隅をつつくように細かなことばかりを気にし、全体を見ない。
勝手に自分が空っぽになり、自分自身を貶めて、人格を歪めていくだろう・・・。

でも、それが自分の本当に望むことでないことは、良く分かっている。
すごい人間にはなれなくても、いつも好きなことはがんばってるくらいの人間でありたい。
私のなりたい人間とは、そういうものなんだろうと、今は思うのです。
だから、日々反省はしてるんですね。
取り返しのつかなくなってしまった関係もあるけど、それも糧にして、次の失敗はないように・・・。
そういう些細なことが、人の生活における、成長であり、楽しみであり、変化であり、自分自身を高めることになるのではないだろうか・・・。

「私は私」でも、実は少しずつ変化してない人間などいなくて・・・どうせなら、良い方向に変わりたい、と思うのです。
それがきっと本当の意味での「成長」なんじゃないかと思います。