教師が嫌いなの?

・・・ちょっと前の数々の、批判的な書き方で、友人がそう聞いてきた。
その質問は、「yes」であり、「no」でもある。
友人にも教師をしている人はいるので、もし嫌いなら、友人が減ってしまう(笑)
教師をしている友人はとても素敵な人、と思っている。

「教師」という職業上のカテゴリーで、好き嫌いを言ったことはない。
たまたま、私と合わなかったり、どう客観的に見てもその職業はあなたに向いてないでしょう・・・と思われる人が教師と言う職業についていただけのこと・・・。

どの職業でもそうだけれど、特定の職業にずっと従事していると、一般社会とかなりズレが出てきて、接した相手に不愉快極まりない態度をとっていることがある(もちろん、ご本人は気づかない。なので、こちらのリアクションによっては、こちらを失礼な人、と思ったりする・・・・誤解の発生課程その①なわけです・・・・・)。

私と合う合わないなんてたいした問題ではないけれど、後者・・・つまり向いてない人間がその職業を続けると言うことはかなり問題があると思っただけ・・・。
いわゆる、「自己分析(適性に関する)の欠如」と言う状態なわけですから、そんな人が、まだ精神的に未熟な子供たちを教授したり、養育の一端を担うと言うことは、かなりいびつな人間を作り出すということであり、平たく言えば、迷惑な人がいっぱい出ると言うわけなんですよね・・・。
ライターと言う職業柄、色々な職種の方に過去、かなりお会いしてお話をしたけれど、自己分析できていない人間が良い仕事を、良い環境の中で、良い状態で、迅速かつ効果的には行えないということなんです。私に関するなら、落ち着きがなく、ヌケサクで、勘違いも多い・・・失敗なんぞすると、余計あせって、次の仕事まで響くこともある・・・・ことごとく駄目な部分をかなり持っているので、そうならないためにはどうするか・・・?
と、自分のマニュアル「のんちゃん取扱説明書」(略してのん説)を密かに、心に忍ばせているわけなんだけれども・・・・。
自分ってなかなかに難物で、思うように動かせないときも多々ある。

どうも、そういうことさえ考えたことのない人間が教師になっている率が多いように感じるのだ。
子供が小学校に上がって接する教師たちの間に・・・。
大学で4年間、どういう勉強をしていたのか疑わしい人さえいた・・・。
教養のかけらさえ感じさせないあっぱれな人もいた・・・。(それで教育できるのか・・・?ことごとく疑問・・・・・)
ちらと見るだけでも、能率は悪いし、新しいものには懐疑的(相反して、子供たちは新しいものは大好きだ!)、体制や面子は大切にするけれど、それらを大切にするがあまり、本当にしなきゃならない仕事や子供のことが置き去りになっている・・・と感じさせる場合も多い。
例えていうなら、テストのとき、空欄が目立たないように、間違ってはいるんだけど、何か書いて埋めてさえおけばいいだろう的な、いい加減さを感じるのです。

「お気持ちは分かります」
「言いたいことは分かります」
「そうですよね、そのとおりですよね」

・・・・・と言いつつ、別の角度から質問したり、相手に意見を求めると、まるきり理解していない事が露見したり、ただ相槌打ってただけだとピンとくることって多い。

なので、私は自分の考えはいつも先にささっと述べるか匂わせる程度にしておいて、「で、先生はどう思います?」と聞くことにしている。

まともな意見が返ってきたことは残念ながら少ない。
「え・なんですって?もう一度お願いします」
なんて、実はまるっきり人のいうことを聴いてなかったって事もざらにある。

上の子の時には3年だったときの担任教師がそのタイプで、日常会話でさえ通じなくて苦労したのを覚えている。(て、言うか、そんなで国語教えてて大丈夫なのか????このクラスから国文科は出ないんじゃないか・・・・????)

下の子は、幸いなことに、今までは日本語が通じる人ばかりだったのでそう変なのにあたったことはないのだけど・・・。

接する人の中で、思い込みが激しくて、マイルールしか信じてない人に教師が多いのは事実なんだよね。
頭がいいとか悪いとかではなくて、社会経験の貧困さから来るものだとはっきりと分かる。
無論、そうでない人もいるし、ごくごく普通の感覚をきちんと持った人もいる。
(教師をやってる友人H、こういう人たちの中で、君が君らしさを保っているのは相当努力してるということ、分かるよ・・・)

それに引き換えると、子供たちが通っていた幼稚園の保育士サンたちは、ものすごくレベルが高かったので、ぶっちゃけ、その落差に愕然としてしまっただけ・・・。
同じ教育者という視点で見ると、明らかに、こちらに軍配があがる・・・。

きっと小学校の教師は「小学校と幼稚園では違うでしょ???」と言うのだろうけど、では、幼稚園の子供たちを上手くまとめてみるといい・・・。
そんなに簡単なものではないのだよ。

あの幼稚園の先生たちは、当然ですが・・小学校を出てるのだから、実は教える気さえあれば、小学生くらいは教えられるんじゃないかと思うのだ。
それくらい、勉強もしてるし、つまずきを経験値に変えている。
一番成長著しい時期に、子供と接する仕事は、とても大変なことだ。
故ダイアナ妃も、幼児教育の大切さを訴えていたではないか・・・自分が保育士をしていたと言うこともあって・・・。

だが、小学校からの教師の中にこうもダメダメな人たちがうようよいたのでは、日本の子供たちの健やかな未来は考えられない。

子供の親であるということを抜きに考えても、かなり不安な状態なのだよね、日本という国の教育という現場は・・・・。

でも、私は、こういう状態だから、チャンスもあると考えてるほうだ。
どうしていいかみんなが分からずオロオロするなら、私は自分の基準をしっかり作ろうと思う。

ナチュクリと同じでね、どんな時代にも、どんな環境でも、決して揺るがない法則はあるものだ。

「人には迷惑をかけない」
「弱者には優しく」
「トラブルがあったら解決策を探す」
そんなようなこと・・・。
でも、たったそれだけの事さえできていない人が教師という職業を選ぶから、困難になってるんじゃないの?と思い当たる。

ただ、こういう問題は、「ニワトリと卵」じゃない。
ちゃんとルールを決めて、然るべき処置をすれば片付く問題だ。

いじめも同じ。

「いじめるほうが100%悪い」

たったこれだけのルールをベースにして、進めればいいだけだ。
「いじめられるほうも悪い」、そんな理屈を通すから、よどむのだ。
それを言い出したのは教師サイド。どこまでも交わらない2つの理論は、論じていても意味がない。

殺人に置き換えると分かりやすいよね。
「何があっても殺人(いじめ)はいけません」

情状酌量の余地があるかないかは、裁判の後、決まることで、殺人自体は償わなくてはならない犯罪なのだ。

ナチュクリを始めると、家事だけではなく、小手先のことや、今までの常識のゆがみが見えてくる。
その思考回路で物事を考え始めると、世の中の漫然として続けられているけれど、どうでもいいことが見えてくる。
どうでもいいことに気を取られすぎて、本質や本分を忘れているから、中が腐ってくる。
腐った環境で育てられる子供たちは迷惑千万なのですよ、と言いたいのである。
子供が宝というのであれば、その宝を守り育てるポジションに自分がふさわしい人間なのか、客観的に見てもらおう・・・・だから、数年毎の更新試験をするということは、とても良い!と私は思います。
もっとも、その内容があんまりにもお粗末なら・・・・・またまた意味のない形骸化したシステムが増えるだけなんですけどね・・・・・。
一日本人として、どう変わっていくのか、見届けさせてもらおうと思う。この国の未来と、教師という仕事の意味と、教育の現場の変化を。
少しばかりの期待を込めて・・・。