「適性」
読んで字のごとく、国語辞典には、『性格や性質が、その物事に適していること。また、その性格や性質。「―を見る」「―に欠ける」』
・・・ってことなんだけど・・・。
最近、相方と、その話をした・・・。
我が家では、ディベートが日常的に行われる。
議題は、「子供」のことから、政治・経済・教育やニュースからお互いの心情まで・・・・何でもいいのだけど、とにかくよく色々な話をする。
遊びに来た友人達も大体、不思議がるほど、何だかんだと話している・・・らしい・・・。(先日は、「相対性理論」という本をローソンで買ってきたばかりに、苦手な分野でのディベートに発展・・・・のんちゃん惨敗(T_T)・・・・・ああ・・・アインシュタイン好きなんだけど、その難解な計算式はまったく理解不能です・・・頭悪くてごめんなさ~い・・・・)
まあ、家庭生活はこちらにおいておいて、このところ、よく話題になっていたのはこの「適性」というワードに関して・・・。
野球選手で例えるとキリがないので、それはやめておこう・・・(おまけに熱い!語りだすと長すぎるぞ!・・・多分・・・・^^;)一番疑問なのは、英語が喋れない英語の教師。
これは、あまりに不思議ではないか?????
日本語が喋れない国語の教師はいないし、数式が解けない数学の教師はいない(例外アり!)。
縫い物や料理が出来ない家庭科の先生もいないし、当然、体操の出来ない体育教師はいるはずもない。
でも、そこいら中に英語を話せない英語の教師はいる・・・。これって、そりゃ、高校まで勉強しても話せないのも当然なんじゃないかと思うのだ。
話す楽しさ、コミュニケーション取れたときのうれしさを教師が語れないのに、なんで生徒に伝えられる?
教師の適性・不適正はもっと厳密にすべきではないかというのが私の考え・・・。
「適性」・・・難しいけど、私も、ライターをやったり、編集をやったり、重曹啓蒙をやったり・・・・本当に適性があるのか、自分で疑問に思うことがある・・・。
「好きこそものの上手なれ」とも言うので、ま、何とかなるかな・・・・と、ここまで来てしまった。
努力はしているつもりだけど、方向性が間違ってないかとか、考えることは盛りだくさん・・・・。
失敗しては試行錯誤の連続だ・・・この歳になってもなお・・・・。
英語の喋れない教師と同じく、味の分からない料理人や、乳製品にアレルギーのあるケーキ研究家なんて、それは適性がないんだってことだ。(美味しい料理作れないし、研究なんか出来ないじゃないか!?)
当然、お金を横領する公務員なんて、言語道断だ。
適性がその道にない人は、他に行くべき道があるんだという風に潔く受け取らないと、どんどん間違った方向に行くだろう・・・。
どんなに言い訳や、努力を見せられても、普通の社会では、やっぱり「結果」重視なんだよね。
それが大人というものなんだよね、やっぱり・・・。
そして、そういう「間違った」人は、やはり、周囲との摩擦は必須だ。
罪を重ねていることさえ気付かない人だっている。(そんな人は、都合よく、自分と周囲との摩擦だって気付きやしないのだ・・・・鈍感なのか、人間的に馬鹿なのか・・・微妙だけど・・・・)
いかに、第三者的に自分を見つめることが出来るのか、それも「適性」がなければ永久に分からないのかもしれない。
色々なもののお陰で、幸いにも、一人よがりにならずに済んでいる。生きてるだけで、もめることもあるし、誰かを傷付けることは、もちろん、ある。そして、その逆もね(^_^)
さんまの「人生生きてるだけで丸儲け」という言葉は名言だなあ、と思うわけです。
あちこち頭ぶつけるたびに思い出します・・・・。
もう既に、結婚もして子供もいる私が「適性」なんて言うのも可笑しいんだけど、母として、妻としてやれてるのかな・・・というところは、実に微妙だ・・・・^_^;
時として、個人主義に転換する変わり身の早い私のこと・・・・一番迷惑を被っている相方は、複雑な表情。
その相方と、次はどんなお題でディベートをする羽目になるでしょうね・・・・。
「適性」・・・人生折り返し地点で、再度じっくり考えるべきことなのかもしれない・・・。
願わくば、実り多い人生を歩みたいのんちゃんです。