子供達と出かけた・・・・GEO川○店へ。
子供達は、アニメなんかを選り好みしていた。
私は、以前から見たかったけど、なかなか映画館へ行けずに終わってしまった映画を物色。
私が借りたのは「ターミナル」と、「ヴィレッジ」の2本。
どちらも、楽しく見ることが出来た。
意外なことに、子供達は「ターミナル」は私と一緒に見て、笑い、泣き、感動していた。
子供の理解力では「???」な部分もあるので、ところどころ説明を求めてきたけど、まあ、それは何とか説明できる範囲だったので・・・・。
一方「ヴィレッジ」は、ミステリーで・・・。
これはさすがに付いて来れずに、途中からゲームに走ったり、テレビの普通の番組を見たり・・・。こういう時に子供の成長度合いを感じる。
少しずつだけど、心のひだが深くなってるのだなあ・・・と、思う。
画一的ではなく、多面的で立体的な精神構造は、確実に大人に成長している証拠だ。
最近は、うちの子より大きな子でも、この「心のひだ」が浅く、薄っぺらい子が増えている気がする。
感情表現も乏しく、喜怒哀楽の4つくらいしか感情のない子・・・。
何か自分に不都合なことをされると烈火のごとく怒るけれど、他人にどれほどひどいことをしてもまるきり感じることがない。
喜怒哀楽の「喜」と「怒」と「哀」と「楽」の相互間の微妙な感情が抜け落ちている・・・・そんな不思議な精神構造だ。
何があってもすぐマックスに達し、意外なほど、爆発的な行動をとる。
「喜」の時は、うれしくって、人込みやTPOをわきまえず、振舞う。
「怒」何にでも、誰にでも八つ当たりをして、物を壊したり、他人に怪我をさせたり・・・・・。新聞や警察のお世話になる人もいる・・・。
「哀」先行きをまるで考えず、すぐに悲観したり、世界で一番不幸だと勝手に思い込み、自殺をしたり、精神が病んでしまうことがある。
「楽」苦労をせずに手に入れようとする・・・それが犯罪であったとしても。自分のニーズのみが大切で、あとはどうでもよい・・・そんな人を見かける。
人の感情は最初点だけれど、次々に体験を積み重ね、点の数が増え、その点はやがてつながり、その人独特の線となり、面となり、その人にしか描けない人生の絵画を描いてゆく・・・。
平面で満足できなくなったら、今度は高さを築き、誰もが自分だけの「自分」と言う作品を自分で仕上げて行く・・・。
美術部だった時、絵を仕上げながらそんなことを考えていた・・・・。
平面の中に立体を描きながら・・・決して上手ではなかったけれど。
でも、今の子供達の幾許かは、点のまま、ひたすら点のまま、何をも完成させず、完成させようともせず、点の数を増やそうとさえ思っていないような・・・そんな危険なムードを感じる。
社会全体がそんな感じを受けることもある。
とてつもない不安感は、映画の「ヴィレッジ」どころの騒ぎではない・・・。
息子のクラス(小学校)に既に数人、そういう人間が混じっている。
目前の享楽に興じることはあっても、その先を考えることの出来ない人間。
子供だけではなく、その親も話しているとそんな感じだ・・・・。
こちらが何かを熱く語ると言う気にはとてもなれない。
恐らく、理解を示してももらえないだろうと思う。
ただの挨拶でさえ、すでに上手くいかないのだから・・・。
それでも話さなくてはならないことがあって、コミュニケートするけれど、発言が霧散してしまうような感覚に、手ごたえのない感覚に唖然とする。
息子達も友達と話しをしていて、そんな親を持つ子供達と話していて、私と同じような空しい思いをすることがあるのだろうか?
成長しつつある彼らはだんだんと、その心の内を私には話さなくなってきたけれど・・・・・。
誰もが未来を熱く、明るく語れる・・・・そんな時代になるために、大人はどうすればいいのだろう。
まずは、息子である君達に、絶望的ではない未来を語るところから、始めてみようと、母は思う。
些細なことでも、楽しいこと、嬉しいこと、人生の機微はいつだって、自分の経験値になり得ることを、体感し、気付いて欲しいと、まずは私の下らないかもしれない人生から時折、話す事にしよう。
明日の朝ごはんは、一緒に作ってみよう・・・だって休日なのだから・・・。
そんな小さな積み重ねこそ、実は点と点をつなぐコミュニケーションのヒントなのかもしれない。
DVDを返却する頃には、なにか1つでも話せていればいい・・・・と切に願う。