ちょっとした言い訳

何日か前のブログで、10年前の服でも着ている人は・・・・云々・・・・という話をした。

私自身は、ちっともおしゃれじゃないし、まあ、関心も無いほうだと思うので、ファッションは深くは語れない・・・。
でも、言いたかったことと違う風に友人が受け取ってるみたいなメールをよこしたので、もうちょっとその辺の考えを、自分でまとめて見ようと思った。

簡単に言えば、中学生の時と同じ髪型や服装が似合う人もいるし、それは個人の自由で、どうにでもしてくれて良いものなのだ。
ただ、大方の人間が、しわやシミや、皮膚のたるみが出来てくるので、多少マイナーチェンジしないと、そのままでは似合わなくなってくるのが普通だと言う意見は変えないけど・・・・(^_-)-☆

問題なのは、表面的なファッションでは無くて、内面そのもの・・・・なのだ。
客観的な自分を持たない(客観的に周囲の事柄を判断できない)ということは、どういうことか、と言えば「コドモ」であるということだ。
自分のことしか見えない、自分の欲求しか大切ではない・・・・それはまさしく「コドモ」なのだ。逆に「オトナ」ってどういうことかといえば、経験を積んでいるから、対象物や他人との距離のとり方や、状況判断が的確で、相手からぶつかってこない限り、トラブルを起こさず(起こっても自分で解決できる)、社会生活に適応できている人のこと。

この、「経験を積む」って言うところが、大きな分かれ道かもしれない。
地方公務員の皆さんに決して恨みは無いけれど、でも、社会に出た時から、ほとんど同じ顔ぶれで、外にはみ出ることなく黙々と仕事をして生きていると、外が見えなくなりませんか?ということ・・・・。
同じような価値観、同じような喋り方、同じような服装・・・・。
枠からはみ出てそうな人を、非難するような態度をとる人達を、私は少し軽蔑するのです。
しかも、その枠は、決して正確ではなく、かなりいびつなものだから・・・・。

うちの近所はいびつな枠の宝庫で、町全体がそんな感じなのです。
違う価値観で生きている私にはだから行き難い・・・。
重曹1つとってもそうです。
うちがどうしてようと関係ないのに、「やいやい」言う人達がたくさんいます。
でも、私の考え方は、私の近所の人達と違うと言うだけで、間違ってなどいないのに、それでも、自分達と違うと言うだけで、いろいろ摩擦があります。

まあ、いき難いことこの上ない地域ですけど、同じくそう思ってる人達とも知り合えて、そして、辛くもなくなりました。
開き直りもあったしね。

こざっぱりしたシャツと、Gパン、それだけしか身に付けて無くても、清々しい人が確かにいる。
折り目正しく、一言言葉を交わしただけで、無理なく信じられる人・・・・。
ごてごてした服や宝石で身を包んでも、少しも美しく見えなくて、言葉を交わしたら、もう、2度とお会いしたくないわ・・・とさえ思う人もいる・・・。
とても育ちがいいのかしらという、肩書きを先に聞いていて、実際に会うと、肩書きだけで、実務の力の伴わない、中身の無い空っぽさんもいる。

どんな人と出会っても、「私は私」。
筋を曲げず、自分らしさを失わず、地に足付けてふんばろうと思うのです。

極端な例えだけれど、アフリカの砂漠の真ん中で、行き抜ける人が一番の理想かな。
そこでは、実務能力と、「生」への限りない希望、そして生き抜くための知恵と工夫・・・・そんなものが必要ではないかと思う。
肩書きだけのために奔走する人や、重くて何の役にも立たない宝石をいくら並べ立てても、生きてはいけない・・・。

今日また一人、生き抜けそうな人と出会った。
悲しいことも、辛いことも、きちんと乗り越えられる人だ。
その人の強さは、張子ではない。
そして、うれしさや楽しさを、卑屈ではなく真正面から受け止めて、心を満たすことが出来る人だ。
本当の強さを持っている人は、幸せも数倍感じることが出来る。
だからより強いのだろうと思う。
そして、そういう人達は、よい友人、よい上司、よい同僚を持っていることが、今までの私のつたない経験からいくと100%そうだと言える。
人との信頼関係という皮膜は、その人の運や魅力も強くし、更に成長をさせているのだと思う。

はっと気付くと、今、私の周囲には、信頼でき、尊敬できる人達がたくさんいる・・・・少しずつまだ成長できる自分を感じてうれしくなる。
明日を迎えられることが楽しみで、うれしい人間でこれからもいたいと思う。