母の入院している病院は、脳神経外科の専門であり、救急指定をしているせいもあって、救急車の出入りがひっきりなしだ。
母も1ヶ月前そうだったように・・・・。
突然、介護生活に入った私だけれど、私より少し前に、そうなった友人のお母様の訃報が入った。
母のように、脳を患ったわけではなかったし、手術をしなくてはならなかったけれど、それも受けて、経過は順調で、とても良くなっていると数日前に彼女からうれしい報告を受けたところだったのだ。
このまま治ると、誰もが信じて疑わない人が亡くなる・・・。
母の病院に担ぎこまれた、ひどい怪我を負い、もしかしたら・・・・といわれる命が助かる事もある。
私たち一人一人、この、儚くてもろくて、自分だけの力ではどうしようも出来ない「命」というものを授かっている。
そして反面、しぶとくて旺盛で、生きるためには何でも食らうような肉体の中で、その炎を燃やし続けている。
諸刃の剣のような「命」を、見せ付けられるような毎日の中で、尽きる命と、再び燃え始める命と、両方感じている。
いつもは感じないけれど、それはずっと周りで普通に起こっている事なのだと思い知らされる。
決して、産まれる命ばかりではない。
誰かの命が尽きるとき、その重みに圧倒される。
この世に一度でも生を受けた命は、重くて、切なくて、ずしりと悲しい手ごたえがある。
私は友人のお母様に会ったことはない。
でも、その人の生きてきた人生は、やはり、決して軽いものではないだろうと言う事は分かる。
たった40年程しかまだ生きていない私の人生も、ほんの10年しか生きていない子供の人生も、それでも同じように重いのだから・・・。
誰かを失う悲しさを、知らずに一生生きられる人はいないから、すでに、何度か立ち会った私はいつもそうした時、また心が鈍感になる。
そして、体も心も縮めて、小さくなって、次のジャンプに備える。
本当に癒えるまで、どれくらいの時間が必要なのか、そんな事はわからないけれど、動けるようになるまで、じっとしている。
近親者を何度か続けて見送る側にいたから、「ご冥福」という言葉が嫌いになった。
大して心にかけていないような人も、口をそろえて、そう言ったから・・・・。
その時それが、亡くなった人間に対してなんだか失礼な気がしたから。
でも、気の効いたことを言って上げたいけれど、そんな言葉しかやはり浮かばない。
魂を悼む気持ちをもっと的確に表現できれば良いのだけれど、こんなに悲しい出来事に、はまる言葉って、そうそうないのだ・・・。
だから、「ご冥福を祈る」という言葉に皆でやっぱり寄りかかるしかない。
本心からでも、まったくの義務からでも・・・・・・。
辛くて狭くて窮屈なその言葉に・・・。
残された家族の人たちの健康の方が私は気にかかる。
我が家でも、祖父と父を続けて見送ったあと、祖母と母も続けて入院する羽目に陥ったから・・・・。
病は気から・・・とはよく言ったもので、精神的なダメージが大きいと、体まで壊れてしまう。
どうか、お体に気をつけて、それだけが、私の一番かけたい言葉だと思う。
儚い命を見送っても、倒れぬように、自分の体の健康を保てますように。
逝かれた人も、残された人にきっとそう思うはずなのだから・・・。