平成5月10日11時の約束

母の介護度を認定する日。
約束の時間、約束の病室に市の担当職員到着。

何を聞かれるか大体のところは分かっていたから、てきぱきと答える。
実は、数年前、主人の父が同じく急に脳梗塞で倒れたので、ほぼ同じルートを歩いているから、慣れているといったほうがいいかもしれない。

現在の彼女の運動能力、可能範囲、そして認知度の程度。
合併症について、そのほか食事や投薬についてなど、現在受けている治療なども事細かに。
こういう仕事をしている人に対して、別に憎しみは沸かないが、かなり、プライベートなことも聞かれること、そして、身体状態の確認に母の体を触ること、こういうことに軽い嫌悪感を覚える。

医師や看護士に腹は立たないのに・・・・。

それは、多分、医師や看護士といった人達は、母の治療をしてくれている。少しでも良くなるための、あるいは悪くならない為の処置を施してくれているのに対して、認定をする側は、モルモットのように扱うからだと思う。

動きにくい関節を無理に曲げたり、また、動かないほうの足を持ち上げたりする・・・・そこには正直、口ばかりで優しさがまるで感じられない・・・当たり前といえば当たり前で、そこには「任務遂行」としか感じられない雰囲気が存在している。
無論、理性の部分で納得はしているから、従うけれど、いくら頭で理解していてもハートの部分が拒むことってあるものだ。

これは主人の父のときにも感じた。
実の父でなくてさえ、そう感じてしまうこと・・・私だけなのだろうか・・・。
いくら担当の人が気を使って話を進めていても、笑顔で接してくれても、ざらっとした摩擦のある繊維で不意に顔をなでられるような感覚にいつも陥る。

私も負けずに、笑顔ではきはきと接し、相手の求めに応じて答えを返すが、結局、担当者はいつも看護士やまたは医師に本当かを確認しに行く。
まるで、私がうそでもついているかのように・・・。
ここでも、居心地の悪い違和感を感じてしまう。
私の言うことを信じられないなら、最初から医師や看護士の意見を先に聞けばいい・・・この制度は、何かおかしいといつも考えさせられる。

素直に税金を納め、ずるいこともせずに生きてきた人間が、不意に起こった不幸なことによって、行政の力を借りなくてはやっていけなくなって、当然の権利を主張しようとすると、途端にたくさんの壁が立ちはだかって、邪魔をする。
主張を出来なくなった本人に代わって、家族が遂行しようとしても、とても面倒と感じさせる。いつもの私の考えすぎ?または空想?なのかな・・・?

でも、それとばかりはいえないと思う。

人と接する仕事は、細心に細心を重ね、デリケートな問題にはそれ相当の注意をもっと払うべきだ。

この方法は、正直、「晒し者」か「モルモット」と感じる人が多いのではないかと思う。
でも、あまりのことに動転していて、そんなことさえ感じなかったりする人が多いのだろうか・・・?

母は、病人であり、いたわられるべき人なのに、そうは決して感じない数十分が過ぎる。

無理に車椅子を操作させられ、耳の横で手を鳴らされ、耳が聞こえるかを確認させられる。
目の前に指を一本立てられ、無理だというのに数を数えろと言われる・・・。数えられないと、はい、数えられませんね、で終わり。
出来る出来ない、出来る出来ない・・・・ただひたすら、それだけを確認する・・・・。

やっと開放してもらった母は、お昼ご飯。

私は、福祉施設のケアマネージャーさんと、入所の手続きでお話しをする。(なんと、立会いに来てくれていたのだ・・・・)
いろいろとお話と事情を聞いていただき、入所の申し込みを書いて取り急ぎお渡しする。

少ないけれど、入所60人待ち・・・・。
他は、この倍も3倍も待たなくてはならない。

今回は田舎であることに少し安堵感を持つ。