突然、外にいるとき、携帯が鳴った。
実家のおばあちゃんから・・・。
ご近所のSおじいちゃんが亡くなったから、早く帰ってきなさい・・・。
あわてて、帰り、そのお宅に駆けつけると、なんと、亡くなったその日に、おばあちゃまは怪我をして、入院、手術をしなくてはならないと言う。
もう既に嫁がれていたので、私はほとんど見たことのない、そのおじいちゃんのお嬢さんたちが、おばあちゃまに言うか言わざるべきか・・・随分悩んでらした・・・。
同じ年代を生きてきた、年配の方達が「言ってあげないと、それはあまりにかわいそうだよ」とお嬢さんを諭す・・・。
随分悩んで、お嬢さんはそれに従った。
病院に行かれて、何時間も帰ってこなかった・・・。
午前中に家を出て、夕方帰ってきた。
私達、お手伝いの人が作ったおにぎりを「ありがとう」と言って、口に運んだ。
「お味噌汁がほっとする・・・とても美味しい・・・」そう言ってようやく重い責任を果たしたことを私達に告げる。
娘として、大変なことだったのだ。
父の死を手術の間近な母に告げると言うことは・・・・。想像するに余りある責任と重圧だ。
私達は、お通夜に来てくれる人達や親族の人達の食事を用意するだけしかできない。むかしの頑固な男を絵に描いた様な人だった。
亡くなったうちの父といくつかしか年も違わないし、どちらが頑固だったか・・・それくらい頑なで、でも昭和と言う時代を生き抜いてきた人だった。
うちの子供達がもっと小さな頃、2人でつくしをつんでいると、「おっちゃんの畑の横のほうがよっけ(たくさん)生えとるぞ」と言って、そこでつませてくれた。
もっと小さな頃、砂場で遊んでいたうちの上の子供が「かわいげ(かわいらしい)な顔しとるけん男の子か女の子かで、昨日の晩、夫婦喧嘩になったんで。そうな、男の子、私の勝ち!」とおばあちゃまは笑ってらした・・・・。
また一人、私の周りの人が手の届かない場所へ行ってしまった。
葬儀の間も、通夜の間も不思議と涙は出ない。
いなくなったと言うことは、すぐにはなじまないものなのだ。
そこで、横たわった亡骸を見ても、それでも現実からは程遠い・・・。
私の目の中には、いつもキャップをかぶって、つなぎを着て、日に焼けて、せっせと田畑を手入れしている姿しか残っていない。
時折、休憩に畑のふちに座りながらタバコをふかしていた。
ぶっきらぼうで、すぐに「わしは学がないけんな・・・」と言って、でも、近所の男の人達をまとめることの出来る人だった。
そしてそんな時、いつも、私を見るたびに「こんなんは、ほんまは、あんたのお父さんやおじいさんの仕事やったのに・・・先逝ってしもうて・・・わしが仕方なくやっりょんで・・・」と、おじいちゃんや父を思い出させてくれる人だった。
私を未だ名前に「ちゃん」付けで呼ぶ、数少ない人の一人でもあった・・・。
私は2人父がいたようなもので、おじいちゃんも父だった。
相次いで2人の父を亡くしてから、周囲の人達に父の残像をかぶせていることがよくある・・・。
私の2人の父は、広葉樹が色付く、紅葉の季節に亡くなったけれど、Sのおじいちゃんは桜の咲く季節にそちらに行きました。
私はまだこの世に遣り残したことが多すぎるので、それらを済ませてから・・・・まだ、随分と先になるでしょうが、いずれ逝きますから。
暇つぶしに、そちらで、2人で意地の張り合いや、喧嘩を是非やってくださいね。
きっとおじいちゃんは「大人気ない・・・」と取り合わずに横で知らんぷりをしているのでしょう。
あなたは、空は好きではないでしょうね。
土が好きだった。不思議なほど、うまく植物や土と会話して、母にその技を伝授した。
だから、母は、今でもとても上手に何でも作ることが出来ますよ。
父は木が好きだった。ようやく、自分の庭を持ち、これからその知識を分けてもらおうと思ってた矢先に、遠くに行ってしまった。
夕方遅くに初七日が終わって、3日間できていなかった犬のお散歩に出かけた。
ずっと前に、まだ元気だった父達、近所の男の人たちで植えた桜が今満開です。
すっかり大きくなりました。
いい季節なのに、悲しみに耐えている人が確かにいる。
来年も是非、美しく咲いてください。
桜の木に心で話しかけました。
来年も、再来年も、そして、秋には葉を色づかせて・・・。
あなたを見ながら、たくさん思い出したいことがあるのです。“