5月4日(木)曼荼羅ピクニック

どこへ行ってたの、と聞かれる。
電話全然出なかったね、とも言われる。
ええ、まあ、と一瞬笑い、
「ちょっとヤマに」と答える。
山みたいなものなので。

ひとつのことにギューッと没頭する。
集中とは、拡大鏡で世界を見るみたいなものかな、と思う。

どこまで分け入ってもそこにヤマがある。星がある。宇宙がある。
この世は曼荼羅に似ている。
あるいは金太郎飴に。

チベットを訪れたとき、
町のあちこちの寺に巡礼が列をなし、
紙にも砂にも曼荼羅が描いてあった。

僧は医者を兼ねることが多く、
病の人々に祈りと薬の手当を施していた。

どうして医者は医者、宗教者は宗教者で分業しないのですか。
そう尋ねると、日に焼けたチベット医は言った。

ここは水も空気もごく薄い。
生き物に厳しいこの土地で命のともしびを守るのに、
物質と精神の力を分けている余裕はないのです。

そのときは、まるで泥縄だと思ったけれど、
今はそのチベット医の言いたかったことが、
なんとなくわかる。

命は物質と精神が分かちがたく結合したものなのだ。
両の翼で初めて羽ばたく。
物質だけでも精神だけでも支えられない。

曼荼羅は仏教的な観念図と言われるけれど、
本当にそうだろうか。

具象の中に曼荼羅があり、
曼荼羅の中に具象がある。
そういう世界に私たちは生きているのではないか。

ひゅっと現実に舞い戻り、
明日の朝食のために、
今夜のうちにオレンジを冷やしておこう、
などと考えている。

オレンジという曼荼羅を、
冷やして、しぼって、いただく。
生きている身の上のアプローチは、
いつもどうしようもなく具象だ。

でも、具象のヤマを登りきると、
次の地平が見えてくる。
そうやって進んでいけば、
案外、地図を持たなくても、
楽しくピクニックできるな、
とも思う。