4月29日(土)はがねのえにし

しとどに雨が降る。
開けおいた窓も、
窓にかかるカーテンも、
滴々、水がしたたり落つほどに。

数年前、友人たちと、
出雲は日御碕海岸にある、
古い社を訪れたときもそうだった。

日御碕神社という。
朱塗りの柱、白い壁。
代々、小野家が千年以上神主を務める。
社までのほんのわずかな道のり、
傘などまるで役に立たぬほど、
皆のズボンも上着も濡れそぼった。

こうなったら、と、もう雨を気にしない連中が誕生する。
「なら展望台のほうにも行ってみますか」と小野さん。

黒い岩の突き立つ断崖に両手両足を付き、
這うように揃って真下の海をのぞき込む。
後ろからみたらかなり間抜けだろう。
しかしこの風、この雨、この高さ。
立って見下ろす勇気は、とてもじゃないけど出ない。

「この海底は、岩と岩の間がまるで回廊のようになっていましてね。
ダイバーの間でも有名なスポットなんです。
昔は海ではなくて、人が歩いたのではないかと言われています」

今は細く暗い水が行き来する。
何物もその場にとどまれないだろうと思われる強い流れが、
無数の渦とともに水底を洗い続ける。

少し歩いて宇竜の港。
この入り江はとてもおだやかな表情をしている。
さっきまでの風雨が信じられないほどだ。

「お探しの天然板ワカメ、ここで取れたものなら太鼓判ですよ。
私も小さいころ、よく浜辺で遊んで、おなかがすくと、
干してあるワカメをおやつに食べたものです」

旧暦一月一日、新しい年の夜が明ける前、
暗闇を割き、海中のワカメを採る。
北九州門司の和布刈(めかり)神社で行われる神事を皮切りに、
出雲、鳴門、伊勢、隠岐、塩釜と、
海藻を供える儀式が列島を北上する。

藻食民族といわれる日本人の、
食の奥底に隠された滋味はこんなところにある。

「最近は天然もののワカメを採る人がみんな高齢で、
跡を継ぐ人がいませんので…いつまで食べられるか」

この岬に、
ワカメはいつもある。
採る人が絶えようと絶えまいと、
自然には関係ない。
“天然”ワカメはゆらゆら、
繁茂し続けるだろう。

しかしこの厳しく美しい海に長く人が結んできた、
かわいらしい縁を失いたくないのだ。

その年、陸上の何の草よりも、
最初に新芽を出す海中の草を取り、
土地の神に捧げる。
幼子のような、素直な行為ではないか。
春の野に初めて咲いた花を、
うれしくて、すぐに母の元に運ぶような。

コンナノアッタヨ、
春ガキタヨ。

そのまっすぐな心根を愛する。
古くから日本に伝わる素朴な伝統行事が、
これからも記憶ではなく、
日常に連なる現実として残り続けるように、
なにかできないかと思う。

いつか人が通っていた道も、
海に占められるときが来る。
今歩けるときに、今出会える人と、
その回廊が失われても消えることのない、
しなやかな鋼のようなえにしを、
鍛え上げたいと痛切に思う。

ある種のネオテニー(幼形成熟)が、
困難から人を救う。
神に愛されし幼子であることを、
知らず具現化しているこれらワカメ採りの伝統を、
不思議な驚きで見守っている。