仕事場で、カタカタとキーボードを叩いていたら、
いきなり耳をひっぱられた。
正確に言うと、
耳に入っているイヤフォンのヒモをひっぱられた。
ひっぱった女性は、
屈託のない美人のキャリアウーマンで、
いつも顔を合わせてはバカ話に興じている。
「ああ、これいいわね、私もそうしようかな」と、
話しかけても答えなかった私の無礼を責めもせず、
耳栓状態をおもしろがり、デスクワークに集中できそうね、と、
体に装着してある携帯プレイヤーの位置を探す。
ええ、正直言って中毒状態。
この世に散らばる曲、
全て集めて耳に流し込みたい。
そうするには時間もお金も足りないけど。
そう答えると、なにがそんなにいいの? と聞き返される。
うまく答えられない。
昔ずっと頭の中で音楽が鳴っていた、
その頃の状態を取り戻そうとしているような気もするし、
疲れたとき、これだ、という音楽を聴くと、
なにかどこか修理されているような感覚もある。
とにかく、今は極限まで飢えた子どものように、
ガツガツと音楽を食べている。
その衝動を止められない。
中毒という以外になんと言えばいいだろう。
ちょっと聞かせて、と言われ、
イヤフォンを貸すと、音の良さに驚いている。
まあ、大きなステレオみたいだわ、と。
でも、実際にステレオで聞くと、
CDやレコードほどの厚みのある音は出ないんですよ。
たぶん、耳にぴったりの音源だからmp3って言うんじゃないかな?
と、ふざける。
そう、これは、
ヒトの耳が最も重要と受け取る周波数だけを、
効率よく強調した、音響心理解析に基づくハリボテの再生音。
そのことを忘れてはならないのだけれど。
風の音、波の音、生の声、生の音楽、
それが最も素晴らしいことはわかっているけれど。
世界中の美しい音という音、全て耳に流し込みたい、
抑えがたい衝動が噴出したのはいつだろう、
何がきっかけだったろう。
そんなこと、不可能だから、
せめてハリボテの、まぼろしの、
音をたくさん、耳に流し込む。
こんなに焼き付くように、何を渇望しているのだろう。
今は、まったくわからない。
まぼろしも、くり返し見れば、
地上に肉体をもって降り立つときが来るだろうか。