この活動を最初に始めた頃、
もうそれは10年近く前のことになるけれど、
なんとなく、自然と心に決めていたことがある。
ボランティアはボランタリー(自発的)に動く人。
それ以上でもそれ以下でもなく。
人に頼らず、人に感謝し、
物好きだなあと言われ、自分でもバカだなと呆れながら、
それでもやめずに動く者。
このことに始まる行動様式、
いわゆる企業活動の行動スタイルとずいぶん違うことに、
その後だんだんやればやるほど気がついた。
人に頼まないとできないことは、
とりあえず自分でやれる範囲に縮小する。
ショボいな、と思っても、それがホントの実力範囲。
そこからやるしかない。
日々是匍匐前進。
でも不思議にみじめではなかった。
なぜだろうと考えた。
たぶん、だけれど、
そしてこの言い方は、必ずしも全ての意味において、
正確というわけではないけれど、
誰かから何かを「奪う」ことをやめたからだと思う。
自分でできることを差し出すだけ。
それは、どんなにショボくても地を這う作業でも、
決して卑屈なものではないと感じた。
生き物にたとえていえば、
企業活動は従属栄養的、動物的、狩猟採集型、
ボランティア活動は独立栄養的、植物的、光合成型だ。
両者は生きる土台が違うのだ。
もし、バイオテクノロジーが進化して、
体の設定を選べるようになるなら、
皮膚細胞ひとつひとつの中に、
葉緑素とミトコンドリアの両方を持つ、
緑色のヒトになってみたい。
そしたら喜んでひなたぼっこしちゃうもんね。
毎日、お気に入りの場所で。
日焼け気にしないんだ。
でもって、1時間もするとおなかいっぱいになる。
そんなのあり得ない?
まあ、間違いなくそうかも。
でももしそのようであれば、と想像する。
もしそのようであれば、
この宇宙の秩序の中で、初めてヒトは、
太陽が終わりのときを迎えるまで、
永の命を保つことを許される、のかもしれないと夢想する。