2月27日(月)解釈

クラウディオ・アバドによる、
ヴィヴァルディ「四季」を聞いてびっくりした。
すごく解釈されているのだ。
これまで聞いたどんな演奏とも違う。

特に「冬」のアレグロにはショックを受けた。
(Violin Concerto in F Minor, RV297 “Winter”:Ⅰ, Allegro Non molto)
ヴァイオリンが刻む細かいイントロの和音、
すべて微妙に調節されて必ず一音だけ、
完全な不協和音が混ぜてある。

それまで聞いていた冬は、
もの悲しさと厳しさを感じる自然の冬だった。
でも、この響きは違う。
精神の冬だ。

狂っている。
いてもたってもいられなくなる。
これが現代人のたたずむ心的冬なのか。
胸に突き刺さって苦しいのに、
中心部分は美しくて、何度も聞かずにはいられない。
ボロボロの音の翼で髪を撫でられているように、
なにかが耳元でざわざわスパークする。

音楽は時間軸に沿って情報を処理するので、
ある意味、言語に似ているといわれる。
ヴィヴァルディは作曲するにあたって、
別にテーマを四季とするつもりはなかった。
一連の曲の流れを聞き、その中に、
自然の移り変わりと相通じる美のパターンを見いだしたのは、
のちの人間たちだ。

アバドは今やそこに、意図して人間そのものを持ち込んだのだろうか。

いや、もしかしたら……。

現代の自然にはもうすでに否応のない「人為」が混じっていることを、
そのまま写し取ってみせただけかもしれない。

この四季は、思い切って下世話な言い方をすれば、
「異常気象」と解釈できるのかもしれない、と思った。
サイエンスの言葉でフラットに叙述される情報として知るのではなく、
芸術によってそれを魂振るごとく感じ取りたいなら、
一度聴いてみるとよいと思う。

本当は、人間の心は美しい。
長く精神の冬を味わい来たる現代人の心も、
芯では美しいはずだと信じている。
少し薬が必要かもしれないけど。
おそらく、毒を含んだアバドの四季はそのひとつ。

すぐそこに春三月、
狂っていてもそれすら織り込みながら、
新しい季節が来ている。