インターフォンが鳴る。
ごく近所の家の御主人が、
何事かならん、玄関先にいらしている。
寒い朝。2月の気象は、
なかなかすぐには春に席を譲らない。
実は家内が亡くなりました。
想像を超えたご訪問理由に絶句する。
まだ彼らは若いのだ。奥様も二十代。
そんなことが、どうして。
ガーデニングにたくさん苗を譲ってもらったから、と、
ポットに植えたかわいいツル植物をいただいたことがある。
芋の一種なのです。でも食べないでくださいね、
毒がありますから。そう言われた。
ツルはヒュンヒュン回転してまわりの環境を探索し、
最後は所在なげに本棚の壁に寄り添った。
クリーピングタイムを植えた、と聞いたこともある。
そうすれば、その場所を踏みつぶしたり、
ゴミや犬のウンチを落とす人がいなくなるから。
ちょうど道ゆく人も眺められる、土の見える場所で、
年々緑は大きくなり、6月になるとあたり一面、
濃厚な花の香りをふりまいた。
最後に話をしたのはいつだったか。
いつもいい匂いがするのですね、と呼びとめられた。
お風呂の換気扇や、リビングのほうから。
それから朝の、寝室の窓を開けたときも。
感覚の鋭い方だなと思った。
ああ、いつも精油を、植物の力を、
エアフレッシュナーに使っているからですよ、と答え、
もしかしてお邪魔になっていますか、とうかがった。
いいえ、いいえ、とてもすてきな香りで。
あれは何の香りなのでしょうか、すっきりした甘い、
清潔な香りをお使いですね。私も使ってみたいなと思って。
それはきっと月桃の香りでしょう。
お気に召したのなら、いつか差し上げます。
高価なので、精油の形ではあまり手に入りませんが、
それを希釈した使いやすいウォータースプレイがあるのです。
私もベッドリネンやお洋服の衛生に愛用しています。
本当に気持ちもシャキッとしますし、気持ちいいですよ。
そうだ。その約束を果たしていなかった。
そのうち、そのうちと思ううち取り紛れ、
記憶の狭間に雑草が生えた。
昨日が今日も、今日が明日も同じように続くと、
どうしていつも脳天気に信じられるのだろう。私は。
走って走って走って。今日やることを今日なさねば、
明日もできると誰が言える。もっと走れ、走れ!
月桃の香りを、小さなご供養に。
優しく強い命の力の風に乗り、
もう春の来ている南の国まで御魂安けく運べと祈る。
生きていることを、土を踏みしめながら、
友と笑いながら、冷たい風の中にヒリヒリ感じながら。