2月10日(金)ロビーには歌を、傷にはワインを

相談、説得、議論、妥協、
連絡、手配、報告、挨拶…
といった単語にまみれて一日が過ぎ、
本日最後の打ち合わせ用件のため、
都内の小さなホテルに赴く。
午後9時半。

このロビーは足音が響くので、
いつもヒールをそっと下ろす。
でも今日はちょっと様子が違う。

ジャンベの音がする。
民族衣装の女性4人がアカペラで歌っている。

金曜の夜、小さなコンサートが開かれていた。
隅のソファにちょこんと腰を下ろし、そっと耳を傾ける。
「これは思わぬプレゼントだなあ」
待ち合わせた相手も場所を変える気はなく、
次第に微笑みが増えて、話もはずみ始める。

ひとかたまりだった女性たちがフワリと展開し、
客たちの座るソファを囲んで輪になった。
ささやくように「上を向いて歩こう」の歌が始まる。
文字通り、生の3D音源と化したヴォーカルが、
客たちの頭上でひとつに溶け、ゆっくりと落ちてくる。

「月だ」
相手が真上を指さした。
ホテルの透明な天蓋を突き抜け、
蒼い光の束が眼底を射す。
ウエヲムイタラツキ

突然記憶が蘇る。
中国の、名前も知らぬ奥地の塔に佇んだとき、
今日と同じように空から降ってきた優しいものに触れた。
誰かが歌う「アヴェ・マリア」。

そのとき私は、
ともに旅をしていた少年のわがままに疲れ、
思わず怒鳴ったあとだった。プイッと子どもが消えたあと、
かなしみがあふれた。愚かな。彼も苦しんでいるのに。
Ave Maria