相談、説得、議論、妥協、
連絡、手配、報告、挨拶…
といった単語にまみれて一日が過ぎ、
本日最後の打ち合わせ用件のため、
都内の小さなホテルに赴く。
午後9時半。
このロビーは足音が響くので、
いつもヒールをそっと下ろす。
でも今日はちょっと様子が違う。
ジャンベの音がする。
民族衣装の女性4人がアカペラで歌っている。
金曜の夜、小さなコンサートが開かれていた。
隅のソファにちょこんと腰を下ろし、そっと耳を傾ける。
「これは思わぬプレゼントだなあ」
待ち合わせた相手も場所を変える気はなく、
次第に微笑みが増えて、話もはずみ始める。
ひとかたまりだった女性たちがフワリと展開し、
客たちの座るソファを囲んで輪になった。
ささやくように「上を向いて歩こう」の歌が始まる。
文字通り、生の3D音源と化したヴォーカルが、
客たちの頭上でひとつに溶け、ゆっくりと落ちてくる。
「月だ」
相手が真上を指さした。
ホテルの透明な天蓋を突き抜け、
蒼い光の束が眼底を射す。
突然記憶が蘇る。
中国の、名前も知らぬ奥地の塔に佇んだとき、
今日と同じように空から降ってきた優しいものに触れた。
誰かが歌う「アヴェ・マリア」。
そのとき私は、
ともに旅をしていた少年のわがままに疲れ、
思わず怒鳴ったあとだった。プイッと子どもが消えたあと、
かなしみがあふれた。愚かな。彼も苦しんでいるのに。
Ave Maria