あなたはおいしそうに見える。
そう言われたらどう思うだろう。
それが女性を敬った相当なほめ言葉だという、
モンゴルの方々と夕食をともにした。
日本にいるときは、
その形容をうっかり直訳で使わないよう、
気をつけているのだそうだ。
セクシーという言葉が近いかもしれない。
でもそれより広い意味。
人に対する讃辞として贈られる。
魅力的と客観評価するよりも、
話し手の、相手に向かう心のエネルギーが、
感じられる言葉だ。
おいしそう、と言える人が、
身の周りに誰かいるか考えた。
また、自分はおいしそうか、
ということも考えた。
するとそのフィルターを通じて、
これまで見たこともない景色が立ち上がり、
愕然とした。
ああ、これはハンターの目だ。
男も女も狩る者としての記憶を、
民族のDNAと文化に強く刻み込んだ人々の視点。
おいしそうということは、
良い獲物になりうることを指し、
良い獲物になりうるものは見る者を惹きつける。
そういえば、美という字は、
大きい羊なのだった。
美はすでにその成り立ちに、
「おいしそう」を含んでいる。
私たちの美意識、
たとえば花鳥風月的なものと美の原義は、
実はかなり異なる。
たぶん、長い時間をかけて、
獲物は愛でる物に変化したのだろう。
慈しみ感じ取る対象として、
いうなれば“愛物”に。
その変化の中で得たものもあるけれど、
失ったものもあるなあ、と思った。
おいしそう、を忘れないことで、
美のバランスがちょっとよくなる気がする。
生きるために大事なこと、必要なことだと、
切実さをもって求められる気がする。