採血のときは、じっと針を見ている。
腕からチューブに流れ出る静脈血を、目で追う。
ところが今朝は、
うまく1回で刺さらなかった。
刺し直しも見ていたら、
看護師さんがかすかに「あ」と声をあげた。
そして針の下にうすいコットンをあてがい、
血管壁との角度を調節した。
見えなくてもわかるんですか。
終わったあとで質問する。
なにがですか、とは訊かず、
針を持つ人は、初めてほぐれてうなずいた。
最初は全くわからなかったそうだ。
けれども、経験を重ねていくと、
針先が皮膚に入り、血管壁に侵入する、
かすかな感覚をとらえられるようになる。
昼前にはもう片方の腕の静脈から、
鎮静剤が体に入っていった。
今度は自分でわかる。
感じたこともない腕の奥にある血管をつたい、
かすかな痛みが肩まで登る。
しかしそこでもう意識はとぎれとぎれになり、
次に体のどこかで発生する、
小さな感覚をとらえられるようになるのは、
数時間後のこととなる。
検査は全部終了し、
気分転換に髪を切ろうと、
土曜日の銀座に出かけた。
蒸し暑い梅雨の空気が体を包む。
皮膚がちくちくし、全身を刺激している。
いつもは「声」をあげない、否、あげていることに気づかない、
体のいろんなパーツの「声」に、
とても敏感になる。
髪の毛も、切られるとき、
悲鳴をあげるだろうか。
何ミクロンの悲鳴を?
幾重にも堆積した小さな悲鳴の上に、
鈍い全体生命が座している。
そう思うと、かなしいくらいに、
命のことが愛おしくなる。