洗う話をする。
それは、考えてみれば不思議なこと。
モノについている異物を水に移し替える。
異物が素直に乗り移ってくれれば洗うのは簡単だ。
でも、そうでないときは、
異物と水との架け橋となる物質が必要になる。
ちょっとしたコラム用のトピックのつもりが、
いつのまにかあれこれおしゃべり。
いろんな自然のダイナミックな力が、
洗うことの背後に隠れている。
なぜそうなのですかと聞かれて、
本当のところは知らない、わからない、と答えると、
意外な顔をされる。現象を把握していても、
人間にその理由がちゃんとわかることなんて、
ほんのわずかしかない。
世の中、不可思議だらけだ。
夜、ざわつく居酒屋の椅子にこしかけて、
新鮮ないわしをいただきながら、
今日あったことをぼちぼち話す。
これも“洗う”に似ている。
心の中に残っている異物や刺激物は、
実際に話すことで離れ、音の海に溶け還る。
文字通り現実は水、言葉は架け橋なのだろう。
ずっとずっと昔から、共に食べて話をすることは、
人の、とても深い部分での癒しに直結している。
機会をいただくたび、その場にいる全員の幸運を思う。