悩みのない人なんていない(2010.5.20)

前にもブログで呟いたことがあったかなあ・・・・?
「アナタは何にも悩みがなくていいわね」、と、当時かなり問題を抱えていた私に、たかが失恋ごときで言い放った人間がいた。
まあ、今思えば、あの時は、家族が病気で生き死にのかかっている私と、たかだか高校生の失恋なんて、比べるべくもなく、逆に、友人達に気取られず、明るく振舞えてたのなら、あっぱれ、と自分を褒めてやってもいいくらいなのだが、若かったので、随分とその言葉に傷ついた。
往々にして、若さってそんなどうでもいい事実の積み重ねだったりする。
いつもそうやって、自分ばかり大切にしていたあの人たちは、今はどうしてるのだろうか?
主婦しながら、あそこのご主人はどうとか、うちの亭主はああだとか、これまたずっと批評会を繰り広げてるんじゃないかという想像は、ちょっと・・・できる。

その時その時、人は否が応でも、悩みを抱えていると思う。
悩みのない人間なんていない。
それが、軽いか重いかは別にしても・・・・・。
煩悩はついて回るのだと、久々に会った友人とも言葉を交わしつつ、再度噛みしめた。
でも、悩みというのは、愛しい何かがあるからだったり、何かを始めたり、続けているからそこに生まれてくるのだ。
幸せのバロメーターと言ってもいい。
自分の傍にある大切なものを、改めて「大切」と気がつく作業だったりもする。気の置けない友人とは、さっぱりとしたお付き合いで、変な気も使わないでいいし、きっと一生友人でいられる人なのだが、彼女もやはりたくさんの悩みを抱えていた。
小さなものから、大きなものまで。
人生というものは、ずっとこうして、旅をしているようなものかもしれないね。
少ない時間の中、たくさんの話をして、お互いの近況を報告しあって、懐かしい時間はあっという間に過ぎ去った。
100年経てば、ワタシという存在も、彼女という存在も、忘れ去られ、誰も、存在したことさえ知らない人ばかりになる。
そうして、時間は止まることもなく流れ続け、常に最先端を、同じ時間の中を歩いている人たちを全員連れて一緒に進んで行くのだ。

その友人に
「あんなにいろいろあったのに、いつも明るいのはなぜ?」と聞かれた。
そうだね、どれ一つとっても、それだけで、自殺してしまう人もいれば、離婚したり、体を壊したり、性格がすっかり変わってしまう人もいるんじゃないかと思うくらい、色々なことがあった、と思う・・・確かにね(笑)
いくつかの出来事では、体調を崩したし、ヒステリーを起こしたり、まあ、今思えば、私の極端な部分が露出しまくった。
特別明るいヒトではないと思う・・私という人間は。
ただ、いろいろあったから、多分、幸せ度のセンサーが敏感になったんだと思うのだ。
小さな事やものでも、ありがたいと感じる生活は、誰かと比べたりして、あの人に比べると自分の生活はつまらない、なんて思うよりずっと気分がいい。
今日、アナタに会えたこと、このブログをしたためていること、家族が元気でいること、それはかけがえのない奇跡で、そんなささやかで、うれしい奇跡をまた明日も続けていくのにはどうすればいいか、毎日考えている・・・それも幸せのかけらの一つ。
たくさんのことに今は、手を広げすぎて失敗が多いけれど、それも幸せ。
伸ばせば届くものがいくつもいくつもあるということだから・・・
今は失敗でも、そのうちちゃんとできるようになるでしょ、だって、そうなるように毎日考えているから・・・
失敗も生きてる証拠、と楽しむことにした。
いろいろやりすぎていて、一つことにパワーを注ぎきれていないのも自分の中では承知済み。

死ねばいいのに、と思う人も何人かいるよ、実際はね。
でも、どうだろ?心の中で毒ずくだけなら、誰にも迷惑かからないでしょ?
そんなことを考えてしまう、心の狭い、いやな人なんです、私という人は(笑)
ホントに口に出しちゃったら、それはケンカになっちゃうし、下らないから、口には出さないけど、思ったことは素直に認めることにした。
そうしたら、心はすっと楽になったんだ。
他人にはめられて、散々な目にあったとき、なるほどね、と思った。
心の中まで、自由でいられなくなったら、おしまい。
死ね、と思う気持ちも、道端の花を見て美しくてけなげだね、と思う気持ちも、同じ私の心のうち。
汚い部分があるからこそ、綺麗な部分も認めることができるようになった。
そうしたら、笑えるようになったんだよね。
どっちも自分。
どんなに両極端でも、それは自分自身。

悩んでいいから、逃げないでがんばって欲しい、と思うのです。
いつも正面から、正々堂々たち向かってください。あなたらしく。
思うように行かないのが人生だから、思うように行く為には、色々なアイデアを考えることが、私たちには許されているのだから・・・

振り向いて考えてみたけれど、うん・・・・色々あったときさえ、やっぱり私は幸せなヒトでした。他人からどう映ろうとも・・・・
家族があって、友達がいて、仲間がいて、相談できる場所も、愚痴をバラける場所もあった・・・・それがなければ、不幸な人だったかもしれません。
人同士の作る皮膜は、本当に強い。目に見えないそのつながりが、そこにあるだけで、孤独ではないし、乗り切ることができる。
まあ、まだ私も問題が全て片付いているわけじゃありません。むしろ、山積み・・・・
一つ片付けば、次の問題が発生している、という具合です。
何を持って、生きていることを幸せというのかはそれぞれでしょう・・・・これ、という答えはありません。
でも、生きているだけで幸せというのは真実だと思います。
生きてさえいれば、いつだって、人生逆転ホームランを打つこともできるし、コツコツとヒットで点数稼ぎだってやれるんです。いやいや、そのどっちもできるんです。
ある朝、目覚めることのない日が「死」というものだと、尊敬する人の言葉で学びました。
毎日眠ることは死ぬようなもの。だから、つまり、人は、毎日生まれ変わっているということなんだよ、ということです。
今日の私は、あと何時間かで死にます。
今日の間に、思いのこすことや、やり忘れたことはないでしょうか?
もし、明日生まれ変わることもなく、そのまま死ぬようなことがあっても、それも人生なのでしょう。
穏やかな心、というものは、自分の内にしかないこと、色々な体験で学びました。まだまだ修行の足りない私ですが、毎日穏やかに床に着けるように、鍛錬します。