お茶事の本をいただいて、
しみじみ感じ入りながら読む。
日本情緒、というのが好きというより、
作法という形式をここまで哲学の高みに持ち上げた、
その深謀遠慮に感心するのだ。
お茶の科学的効用については、
使えば使うほど納得することばかりだ。
たとえば消臭効果。
ビネガーに緑茶の葉っぱを振り入れて、
しばらくすると緑茶ビネガーが出来上がる。
他のハーブのようによい香りはないが、
噴霧するとすみやかに部屋の匂いなどを消し去る。
たとえば免疫増強効果。
特別に免疫力に強く働きかける種類の茶葉もあるが、
緑茶全般に免疫を強くする力が備わっている。
おまけにカテキン自体に強烈な殺菌作用があるので、
風邪のときお茶でうがいをし、できれば鼻洗浄をし、
さらに温かいお茶をたっぷり飲むことは、
体をいたわりながら風邪菌を退治するのに、
大きな効果を発揮する。
中国の古い話にお茶の神様というのが出てくるが、
まさに神さまのようにありがたい植物のひとつだ。
それを大陸から禅僧が持ち込んで、
日本人は儀式にした。
効果があるものを、さらにありがたく見えるよう、
社会的権威という着物を着せた。
その仕上げに利休という巨大な人柱と、
家元制度という管理システムが、
大いに役立ったことはいうまでもない。
もっともその儀式は、
裏にキリスト教文化の血脈を持つともいわれる。
これは私の血、と言いながら、
その方は葡萄酒を注がれた。
この国に至っては、緑色に変わっていても、
それはその方の血かもしれぬ。
ふむ。
葉緑素も赤血球も、
その構造の核に鉄を持つというところ、
けっこう似ているもんなあ。
開祖の死をして、
永続的システムを獲得するのも同じ。
記憶の中に純粋に留め置かれた、
もはや動かぬ開祖が中心の核となる。
キリストと利休は死のプロセスにより、
自らが生み出したorganの、
真中の鉄分子になったのかもしれない。