体の声と死体の日々・・・(2009.2.8)

断食のおかげで、随分と体の声が大きく聞こえるようになった。
ああ、疲れてたみたいですね・・・私の体・・・ゴメンナサイ・・・酷使して・・・
いえ、特別何かハードなことをしたとか、そういうのじゃないですけど・・・・
蓄積疲労というのは、気にしてあげて、意識して取り除くようにしないと、目に見えない形で溜まり続けるものなのだなあ・・・・
お酒の飲みすぎや、お餅の食べ過ぎや、不規則に取っていた食事なんかも、多分原因の一つにはなっている。
もう少し余裕があれば、3日ほどしてみたかったのですが、今回はそうもいかないので、1日でおしまい!となってしまったけれどもね・・・・
咳は少し出ているけれど、湿疹はすっかり治まって、後続する気配もなし。
たっぷりの良質な水分とビタミンミネラルに助けられ、今回の断食も気持ちよく終わりました。
心のストレスは、まだ当分続くけれど、当面のからだのモヤモヤは、やり過ごしたような気がします。
今日から、できる限り早く寝ます。
睡眠が、一番です。一度眠ると言うことは、意識を無くすこと・・・人は毎日死んでは蘇っているのだと、そんなエッセイを読んだ。
確かに、確かに・・・・今日の私と昨日の私が同じ人であるということはないのだ。
細胞も、記憶も、緩やかに入れ替わったり変化したり・・・同じ人間でありながら、別人に摩り替わっていくのだ。
夜の私の体は死体と化して、生き返るまでの間、どれだけ上手に死んでられるかで、次の日の健康が変わってくる。
ある日、本当に目覚めない夜が訪れた時、「死」というものが私の体に起こる変化だ。
小さな頃は、死が恐ろしかった。
目覚めない日が来ることが恐くて、眠れない夜があった。
今はまだ、死にたくはないけれど、毎日重ねる「仮死」状態の経験値の豊富さに、さほど恐くはなくなっている。
目覚めない日は、誰もが遅かれ早かれ、経験することだけれども、心地いい夢を見つつ、起きることのなくなるのが死だとしたら、それはそんなに悪いことじゃないなと思いさえする。
あそこが調子悪い、ここが痛い・・・そんなことから、耐え抜いた人たちは解放され、緩やかに、宇宙の塵となることができるのだから・・・・・
そんな日が、ほんの数十年で私にもやってくる。
体の声が聞こえなくなる日は、どんなだろう。
気にしつつ、今は与えてもらったこの体を愛おしく、ありがたく思おう。