8月21日(月)その存在や善し

古い写真の複写を前に、
しばし考え込んでいる。

百年以上前のスナップ。
この写真に写っている人は、もういない。
この写真を撮った人も、もういない。

ときおり本や雑誌で見かける、
事実上、バブリックドメインとして扱われているイメージだ。

被写体には、本人の死後何年までは、
子孫に肖像権の管理申し立てを保障する、
などといった法律上の決まりはない。
(礼儀や倣いといったものはあるけれど)
それに、この人に家族はない。

自由に使っていいのだ、ということが、
頭では理解できても、まだこわかった。
いや、使っていいからこそ、
こわかったのかもしれない。

かつて生き、この世に得難い花をもたらしたある人に、
あなたの姿をみなさんにお見せしたいのです、
そうしてよろしいですか、と問いたいのだった。

どうやって礼を尽くせばいいのだろう。

バカじゃないの、と言われるような問い。
早く早く。時間がないのですから。

天を仰いで目をつむる。
その人への礼に拘泥するなら、
その人をこの世にあらしめた天地にも礼を。
その人の後に生まれ、その後を紡いだ人々にも礼を。
つまりは、今ここでこの文脈に至るすべてに礼を。

画像転送の操作をしながら、
送られる1ビット1ビットが、
とっくに「是」と言っている気がした。

無数の是が集まり、濃淡の影を成す。
誰も礼などできやしないよ。
是の中で許される存在であることには、
あなたもかなたも、生きても死んでも、変わらない。
ただ感謝して遊べるあいだ、善く遊べよ、と。