伝える難しさ・・・(2008.1.15)

本当に難しい・・・と感じています。
ある人に助言をした事がある。
切羽詰っていて、周囲がまるきり見えなくなっているように感じて・・・・
でも、まわりまわって、今、その人の子どもの起こしている行動を他の人から聞くことになる・・・

「あ痛~!!!!」って感じ。

私のアドバイスは「有言実行」という事だったのだけど・・・・・
やらなければならないことや、計画を立てるという意味で、口に出したり、文字に書いたり、スケジュール帳に書き込む、と言うのをアドバイスをした・・・
無計画に、ただ焦っていても、何も完成しないので・・・

でも、そのニュアンスは伝わってなかったんだと痛感・・・
単なる思い付きを人に吹聴していると言う・・・・「夢」と「思いつき」は、似ているようでまったく違っている・・・・
「夢」(寝てみるヤツじゃないよ・・・・)は、掴む為のものだったりする・・・・・その為に努力をし、場合によっては投資をし、人生の柱にさえなるもの・・・

「思いつき」は、ただ頭に浮かんだだけで、具体的なデーターがあったり、努力を要することを無視したところに存在するものだ・・・
大切に育てていけば「夢」に変わり「現実」に育ち、素晴らしいことの「種」になるかもしれないけれど・・・
儚くて、ひ弱なもの・・・

これも、小学校低学年くらいまでならカワイイかも知れない・・・・・プロ野球の選手になりたいとか、宇宙飛行士になりたいとか・・・・・でも、本当にそれらを実現している人たちの人生を見たとき、そんな根性や努力を自分は持ち合わせているのか、己を振り返って、自分の現実と夢までの距離のギャップにぎょっとする。
それでも、消えずに、その距離を埋めるべく「やっていこう!」と思ったときに「夢」に変わり、夢を手に入れるために努力をして、プロセスを実行していくこととなる・・・。
そして実現させる為には、個人の努力だけではどうにもならなくなることがほとんどで、誰かのアドバイスや後押しが必要になることは必須なのだ・・・・
だから、「有言実行」なのだ。
具体的な「夢」・・・大きくても小さくても・・・・を、実現する為に、周囲の人に言っておくのはそういう意味合だ。
物理的に力を貸してくれたり、思わぬ情報が入ったり、ということのほかに、精神的にも口に出した以上、しっかりやらないとかっこ悪い、って思うから、がんばる。
後押ししてくれる協力者の為にもがんばらないとまずいと感じる・・・・
「有言実行」には、そんな風に、外からと内からとのメリットがたくさんある・・・・

「不言実行」は、例えば、ダイエットなんか、自分だけの為にはそれもいいかな、と思うけれど、結構迷惑なこと、多かったりする。
勝手に思い込んでいて、独りよがり・・・とかね。
例えば、誕生日のプレゼントなんか、高価だけど趣味じゃないものをもらったりしたら、とっても困るでしょう?
何で聞いてくれないのよ!ってな具合に・・・・

ところが、こういうニュアンスをまるきり理解せずに、実行をいきなりしたらしい・・・・
なので、何の努力もまだしていないし、方向性さえ決まっていない時から、現実を知ってからでないと結果を出せないような事柄に対して、色々な人に吹聴しているようなのだ・・・・
それは、悲しいけど、他人からは滑稽に映るかもしれない・・・・・・
タイミングと情報が充分でない時に語るべきではないんだと、近々会うことがあれば、話せればいいと思う・・・・・

人間は花の種だと考えれば、弱い苗の間はとても苗床を出ることなど出来ない・・・。
根を張り、自分の葉っぱで光合成をはじめ、自分で栄養分を作れるようになってようやく外に出られるのだ。
少なくとも精神的に、一つでも二つでも、真理を掴んでないうちは、それは夢じゃなく「夢物語」。
経験を、何かの力に変えられないうちは、まだ幼いんだと、自分の人生を振り返ってもそう思う。

やれる自信がついたときには、堂々とやればいいし、人に語るのもいい。
まだ、門前にさえ立っていない人間は、門をくぐるために頭を垂れなくてはならないと言うことを決して忘れてはならない・・・・
そっくり返って扉をくぐれば、門は壊れる。
学ぶべきことさえ、逃がしてしまうと言うこと・・・

無論、我が家とその家庭では方針も違えば、子どもの性質も違うから、よしとしてやっているのなら、それは仕方ないことだと思うけれども・・・・・・

「夢」を語ること、と、「思い付き」をぺらぺらと安っぽく語ること、とは、似ているようで、顕著に違う・・・・その距離は遙かに遠いのだということを、自身も再認識する機会なんだろう・・・・・

私の小さな夢は一つ一つ、達成されてきている・・・
本当に小さくて、人に語るほどのこともない自己満足な小さな夢たち・・・・
でも、そんなダストダイヤモンドのような夢でも、叶えるためには、随分と努力と時間を惜しまず与えなければならない。時には、睡眠時間と休息と健康を引換えにしても・・・・・・
その小さな夢がいくつか集まって、万華鏡の様に美しいフォルムを描いて見せてくれることも時には、ある。
誰にも認められなくて、自分でさえも卑下してしまいそうな時、そんな時、見せてくれる「夢」と言う光は、素晴らしい。
それを見ながら次の夢が見えてくることもよくある。
叶わなくても、放り出さずに、大切にしていれば、なぜか育って、ある日自分の手の中で重くなっていることに気付く時だってある。

私は、人間としても、母親としても、妻としても、全てに於いて中途半端だと思う。
だから、小さな夢を実現させて、少しでも中途半端さを埋めて行きたい、と最近特に思うのです。
一生懸命やること、コツコツやること、人が見ていても見ていなくても、地道に努力することが即ち、近道なんだと気付いた次第です。今更ながら・・・・言葉にすると面映いけれど・・・

CPPにいなければ、そんなことさえ気がつかなかったかも・・・・・
ダスキンで、重曹が使われるようになった昨今・・・
数年前、ぶちきれそうになったサン○イリビ○グの取材を思い出しました・・・・・
まったく相容れない二つのものを並べて記事にするということに、私は反感を持ち、合成洗剤とそうではないものたちの説明を一生懸命したけれど、担当者は「???」
あの時の人は、今は少しは理解してくれているのでしょうか?
それとも、分からなくても日々過ごせればいい、と無視しているのでしょうか?私のうっとうしい説明とともに・・
あの時も、そして今も、伝えることは難しく、理解してもらえることはほんの少しです・・・

でも、人は何かと繋がっているから、やはり、失敗しても、それでも再チャレンジするしかないんだな。
どんな説明も、おしゃべりも、私という人間から発せられる枝葉のようなもの。
真理というものを語るというなら、普段の生活こそがそれ。
仕事も家事も適当にやっているうちは、まだまだだなあ、と思う。
サボる自分を自分で戒められるようになったら、その時こそ、もっと真実に近い言の葉で、誰かに何かを語れるようになるのかもしれない。
口に出す、ということはいささかでも、責任が生じてくるということ、それを忘れてはいけない。

昔、「夢物語」をナニゲに友達に言って、大恥かいたり、嘘つき呼ばわりされたこと、あったからなあ・・・・
最後まで話を聞いてもらえなくて、なんかこじれちゃって、結局、その「夢物語」は本当ということになって、でも、夢物語なので、全くの虚空・・・・。
子供の頃の上手く説明できなくて、意地になっちゃって、引っ込みつかなくなって、恥かくという最もありがちなパターンです。
学校の先生にもそんなことあったなあ・・・・でもね、実は課題はちゃんとやれてたんだよ。
提出するタイミングを外しただけ・・・・。
いつ出せばいいのか分からず、家の机の中でずっと眠っていた絵だった・・・・・。
私を嘘つき呼ばわりして、クラス全体を見下した態度をとったあの先生は、さすがにもう亡くなってるだろうな・・・・。(それとも見た目とは裏腹に意外に若かったりしたんだろうか・・・?今もご健在???それはそれで恐いわ・・・・・)
今更だけど、コミュニケーションって侮れないな、と大学の時、その出来事を回想して思ったものだ。

失敗をしたから、その後は同じ過ちは犯していない。
教師って、裁判官だな、と、時に思う。
でも、人の心の中は複雑怪奇で、実は表面しか見てないのも教師という職業の人に多い・・・・

正しいこと=必ずやれること・・・・って訳にはなかなかいかないね。普通の人はね。