環境

人には、生きていくのに可能な環境とそうではない環境がある。
科学的、地理学的には温度や湿度、酸素の濃度や食料の有無。
数え上げればキリがないくらい、色々なものが整っていないと生きていけない。
現代人において、社会学的に必須なのは、対人関係を含む、学校や職場、そして家庭の環境・・・。
自分が属する色々な社会で、環境が整っていないと、うつになったり、ひどい場合は自殺なども起こりうるのだ。
そういう状況に直面したことがあって、それを改善するのは大変なことだった。
ややもすると、自分のモチベーションは下がり、自暴自棄になりそうになる。
その下降線の弧に、子供や相方も一緒に乗せてしまいそうになる。
それを何とか持ちこたえ、自分にビシバシ鞭打って、過ごした3年間がある。
その時は精一杯で、自分が他人からどんな風に見られているか、まるで気を配る余裕もなかった。
でも、ようやく、少し心に隙間が出来て、他のものを滑り込ませることが出来るようになった。

冷静になった今も、その大変な時にお世話になった人たちへの感謝の気持ちは揺るぐことなく、今でもありがたいと感じる。
困っている人に手を差し伸べることが出来る人は、心が歪んでいないんだと思う。
その時の私が本当は何を欲していたのか、自分でさえ分からなかったのに、暖かな心を寄せてくれた。

一方、その時、手酷く私を傷付けた人たちもいる。本人達は自覚があるのかないのか分からないけど・・。
まあ、そんなもの、自覚があってもなくても、その人たちへの思いも、揺らぐことなく、侮蔑の気持ちを抑えられない。
私自身の醜い心もそこに集約されているのだ。
自分の中の汚いものを、剥き出しで見せられて、心が萎えてしまったのだ。
今でもそのどちらの人たちにも会うことがある。
予定されているスケジュールの中だったり、ふいに買い物の途中だったり・・・それは様々だけれど・・・。
私の中に高潔なものと腐ったものが同居しているのと同時に、社会と言う大きな中にも、腐った人間と、可能性を持ってキラキラと光り輝いて生きている人がいる。
私は、社会を変えるほど、偉大な人間ではないし、ただの人だけれど、自分の中の腐敗位は止めてみようと思う。
あきらめより希望を、不可能より可能を信じる人間として生きて行こうと思う。
出来ることは些細なことでも、その些細なことだけでもこなせるように・・・。でもねぇ、それが、一番難しいかもね。人間は、自分に一番甘い生き物なんだよなぁ・・・とことんね・・・。