8月15日(火)修羅の月

8月は死の季節だ、
と、つぶやいた人がいる。
ジリジリ焼ける皮膚感覚の中に、
お盆とキノコ雲と敗戦が詰め込まれている、と。

破壊と空虚に直面する時でもあった。
昨日までと今日からと、
なにもかもが変わり、
大の大人が手のひらを返すのを、
幼い瞳たちは確かに見ていた。

それが冬でなかったことは、もしかすると、
最後の恩恵だったかもしれない。

冬に死を思い、生きる土台の崩れる音を聞くよりも、
炎熱の夏、他の生き物は猛烈な繁殖を続ける中で、
人間だけがわざわざ死と破壊をたぐり寄せる、
その愚かしさは、素直に世界を観察するだけで、
幼い者にも簡単に気づけるほどの皮肉だったろう。

そのときの感覚を忘れまいと思った、とおっしゃる。
記憶は薄れ、ショックを乗り越えることはあっても、
そのとき、毎日毎日ぎらぎら照りつける光の中、
「何もかも嘘だったとわかった」事実だけは、
生涯持って行こうと決めた、と。

人間。
仮想の中で、仮想正義と仮想敵を作り、
守るべきもの、奪うべきものを決め込み、
そのために命を賭けて憚らぬ、
奇妙な奇妙な生き物。

プログラミングが間違っているんだ。
その修正は、これまでも、そしてこれからも粛々と、
一人一人の人間が自らのコードを書き直す努力と、
古い人間が死んで、新しい人間に入れ替わること、
この二つの事象に支えられて進むだろうけれど。

不思議なことに、コード書き換えによって、
自らが変わることを楽しむ自分、というものも存在している。
そのメタ構造のヒトこそ、本来のヒトのあり方と信じている。

なんでもありでしょ、本当は。
だってヒトというだけで、
もう十分に制限された時空に生きている。

なのに有限の肉体を使って、
永遠を獲得しようなどと画策する生き物は、
どこか一部、すでに異様なやり方で、
限定条件を突破しているのであり。

阿修羅はもともと、破壊と創造の二面を持つ神格であり、
いわゆる神でも悪魔でも、その眷属でもない。
古い神族は、限定されぬ時空から出発している。
そのことに寄り添うほうが、
修羅から未来を見渡した光景に近い気がしている。