8月は死の季節だ、
と、つぶやいた人がいる。
ジリジリ焼ける皮膚感覚の中に、
お盆とキノコ雲と敗戦が詰め込まれている、と。
破壊と空虚に直面する時でもあった。
昨日までと今日からと、
なにもかもが変わり、
大の大人が手のひらを返すのを、
幼い瞳たちは確かに見ていた。
それが冬でなかったことは、もしかすると、
最後の恩恵だったかもしれない。
冬に死を思い、生きる土台の崩れる音を聞くよりも、
炎熱の夏、他の生き物は猛烈な繁殖を続ける中で、
人間だけがわざわざ死と破壊をたぐり寄せる、
その愚かしさは、素直に世界を観察するだけで、
幼い者にも簡単に気づけるほどの皮肉だったろう。
そのときの感覚を忘れまいと思った、とおっしゃる。
記憶は薄れ、ショックを乗り越えることはあっても、
そのとき、毎日毎日ぎらぎら照りつける光の中、
「何もかも嘘だったとわかった」事実だけは、
生涯持って行こうと決めた、と。
人間。
仮想の中で、仮想正義と仮想敵を作り、
守るべきもの、奪うべきものを決め込み、
そのために命を賭けて憚らぬ、
奇妙な奇妙な生き物。
プログラミングが間違っているんだ。
その修正は、これまでも、そしてこれからも粛々と、
一人一人の人間が自らのコードを書き直す努力と、
古い人間が死んで、新しい人間に入れ替わること、
この二つの事象に支えられて進むだろうけれど。
不思議なことに、コード書き換えによって、
自らが変わることを楽しむ自分、というものも存在している。
そのメタ構造のヒトこそ、本来のヒトのあり方と信じている。
なんでもありでしょ、本当は。
だってヒトというだけで、
もう十分に制限された時空に生きている。
なのに有限の肉体を使って、
永遠を獲得しようなどと画策する生き物は、
どこか一部、すでに異様なやり方で、
限定条件を突破しているのであり。
阿修羅はもともと、破壊と創造の二面を持つ神格であり、
いわゆる神でも悪魔でも、その眷属でもない。
古い神族は、限定されぬ時空から出発している。
そのことに寄り添うほうが、
修羅から未来を見渡した光景に近い気がしている。