個人面談(10/4)

下の子の個人面談。
仕事が詰んでいたので、ギリギリに学校到着!
何とか間に合ったことは幸いだけど・・・。
二学期制になって、こんな中途半端な時期に面談がある。
私自身は、この制度はあまり日本の今の教育には合ってないと思っているので、まったくもって馬鹿馬鹿しい茶番だと感じている。

大きな理由は・・・
夏休み前に成績が出て来た場合、自分の子供が不得意としているものが分かる。
だから、長い夏休みの間に、苦手なものを克服する時間を子供に与えることができる。
自分で出来なけりゃ、家庭教師をつけるなり、塾に行かせるなりしてね・・・。
逆上がりや水泳なら、一緒に公園やプールにだって行ってあげられる・・・。
ところが、二学期制だと、分かった時には夏休みなんてとっくに終わってる・・・時既に遅し・・・日常、授業を進ませながら、更に穴埋めの勉強をするなんてのは、集中力の乏しい小学生にはかなり厳しい・・。
しかも週休2日制で、月曜から金曜までのカリキュラムのきついことと言ったら・・・・・。
通常のテストの量は変わらないとは言え、3回と2回に分けるのでは、当然習熟度が違ってくる。
塾などで、小テストをしょっちゅうするのはその溝を少しでも効率的に埋めるためなんだから、それを、わざわざ非効率な方法へどんどん傾けていく国の政策には首を傾げたくなる。
先生達には、なるほど、便利だろう。
休みは増えるし、夏休みの間にのんびりと、成績表でもつけてりゃいいわけで・・・・こうなる前にお役所の説明を受けたけど、週休2日、二学期制のメリットというのが、どうにもこじつけがましくて、その時にも納得できなかった。
やってみてどうでしたかというアンケートも(そういや最近はないけど・・・)私はいつも「まったく良くなかった」に○をつけていたことも事実。
結局、そういう意見は、都合が悪いので受け入れることはないんでしょう・・・お偉いお役人様達が知恵を絞って考えたことに下々のものは口を挟むな!という暗黙の空気が流れる。
少々大人サイドのスケジュールがきつかろうと、子供のためならそちらを選ぶべきなのに、なぜ、まず教師が楽になるためのほうを優先するのかねぇ・・・・憂慮してしまう・・・。

「教師という仕事はとてもしんどくて、きついんです!」
と、かつて私に世界で一番忙しいんだとばかりに詰め寄った教師がいた。
そうでしょうそうでしょう、この世の中に、ラクチンでお金がどっさり入ってくる仕事があれば是非教えていただきたい!
しんどくなくてきつくない仕事なんてありましたっけ?
多分、社保庁と市町村役場の、人のお金を勝手にポケットに入れてる人たちくらいでしょうか?

保護者の中にも、「勉強」なんて、役に立たないじゃない?社会で生きてくのには・・・・・なんて、もっともらしくおっしゃる人たちもいる。こんなの勉強してどうなるの?と言うわけだ・・・。πも√も、まるきり普通の生活には関係ないから勉強する意味なんてない、と言い切る人たち・・・。
そうだろうか?
少なくとも私はそうは思わない。
漢字も知らない人間は、言葉の意味も分からない。言葉の意味が分からなければ、新聞を読んだり、ニュースを見ても、その中の真実を受け取ることはできないんじゃないの?
ただ笑って面白いバラエティのような番組は、食事で言えば、デザートのようなもの。
マス・コミュニケーションという意味を、ほとんどの人がまともに知らないことがその証拠だ。

★マス=大量
★コミュニケーション=伝達手段

不特定多数の人に情報を届けるという意味こそが「マス・コミ」なんだけどなあ・・・。

デザートばかり食べていたら、体は栄養失調で倒れてしまう。
人の脳みそも、嫌でも、拒んでも無理矢理でも覚えなきゃならないことってあると思うんだな。
例えば1,2,3の数字やABCのアルファベットのように・・・。
数の数え方を知らずに、100は分からない。
知ってて使わないのと、まるきり分からないのとでは、人生のお楽しみ度がまるきり違ってくる。
私の寿命はどれ位か分からないけど、今の調子なら、相当楽しく死ぬまで知識欲を満たしていけそうだ。
つまりは、人生を愉しむことが出来そうだ。
時として、睡魔と闘いながら、時間の配分に苦心しながら・・・ではあるけれども。

責任を持ち、義務を果たす「自由」と、まるきり他人のことを考えない「勝手・気まま」を取り違えたこの国は、どこまで行くのか、ぞっとする。

今や、まなこの曇った教師のわんさといる公立学校と言う組織で、子供の状態やクラスのことを正確に聞き出せるなんて思わないし、少しも安心して子供を任せられない。
だから面談も、とても早い。世間話をして終わり。

一応、教師の目からどう写っているかだけは聞くけれど、それだけが真実とは、とても思えないから、「あ、そのレベルか・・・」と、受け流す。深く心に留めたりはしない自分がいる。
いつでも、学校なんかやめちゃっても、勉強は私が見るし、適切に必要なものは与えるし、社会に出て行くための用意は、「そういう学校」に頼ったりなどしないと決めている。
数年前に我が家では決めた・・・ある事件をきっかけに。
それは「学校」に、痛い目に合わされた。
嘘もつかれ、誤魔化され、バカにされ、挙句に解決の道を絶とうとさえした。
戦ったお陰で、我が家的にはいくつか救いも、いい出会いもあったけど、ダメージたるや半端じゃなかった。
これって、他では救いのない場合もある訳で・・・そう言う人たちを生み出してしまう組織の温床となる場合が多々あるのだ、「学校」って・・・。
それを教師が理解してる学校は荒れないし、都合の悪いことを隠蔽する教師がいるところほど、中は荒廃する・・・。そして、人間的にどうなんだろうと思う教師が集まってしまう場合も・・・ある。

だから、それから私は、子供に与える知識の幅をできるだけ多くしたいと、切実に思っている。ほぼ、そのための勉強と言ってもいい。自分もある時は楽しみつつ・・・ではあるけれど、手にした知識はここ数年で膨大だ・・。

それも、嫌だ嫌だと思いながらも学生時代勉強をしていたから、何とかかんとか、自分で考えるという基礎ができていた。基礎があるから知識と方法を吸収できるんだと言う事は、随分前から気付いている。

私の祖父や父母は、「女の子でもきちんと大学に行きなさい!短大は大学じゃない!」と、言い切る人たちだった。2年では、学問は到底学べないという考えからだったけど・・・自分が大学に入ってそれも理解した。
入学の年(慣れるので精一杯!)と卒業の年(就職活動で四苦八苦!)しかないのは確かに、ゆっくりと勉強と向き合う時間は取れない。
だから、そう言う意味で、短大は大学じゃない、と言った言葉の意味は、今なら良く分かるのだ。
2年じゃ余裕がない、って事なんだよね。
彼らは、私に「学問」と向かい合って欲しかったんだと思う。外の世界を知って欲しかったんだと思う。

今思えば、こんな田舎で、当時は、女の子はせいぜい短大で充分だよね、ということが普通だった地域で、よくぞ、そういう気概を押し通したものだと思う。
私は単にラッキーだったんだな。
世間の価値観に流されず、お金がかかっても、教育にだけは熱心につぎ込んでくれた。
自分達がボロを着ても、心の栄養をしっかりと与えなくては子供は育たないという人たちだったから・・。
そのお陰で、色々な知識と経験を活かして子育てができる環境を不器用な私が、何とか作れている。
私も、子供にはそうしてあげたいと思う。
親になって、親のありがたみはじわっと染みてくる。
その時は、よく分からなかったのにね。

おもちゃやレジャーは、バラエティと同じで、デザート。
人の体で本当の血肉になるわけじゃない。
あくまで主食じゃないんだよね。
本当の知識と、人としての基盤を築くことこそが、「教育」であり、それはただ学校でやる「勉強」とはまるで別のものだ。
その基礎を親が家庭で作ってこそ、「勉強」も活きてくる・・・・そう最近思うのだ。

稚拙でも、考えながら子育てするのと、手近なものだけ片付けたらそれが子育て、と考えるのと、親業としてどちらが魅力的か・・・・?
私の答えは言わずもがな・・・・

ちなみに、中学になる上の子は、安心して学校に預けています。
信頼の置ける担任と副担任の先生・・・細かな目配りは感動モノです。小学校の時とのあまりの落差に、まだ慣れていない私がいます・・・。
良き友人と、最適な環境を保ってくれている学校にも感謝、安心できる場所を見つけられたことにも感謝。
たくさんの感謝を日々感じられる、幸せ。
そんな環境の下、ようやく自分に合う場所で、やるべきことをしっかりと見つける準備を始めた上の子・・・。
まだ方向は定まっていないけれどね。
学歴をまとう為ではなく、自分の天分をきちんと探して欲しい、見つけて欲しい、と願うのみ。
多分、楽しいばかりで見つかりはしないし、くじけたり、こけたりするだろうけどね・・・人生平坦じゃつまらないでしょう?
下の息子はそれを見ながら、ただいま人生模索中。
アイデンティティを確立してる最中です。
そんな彼らを観察しながら、次に自分がやるべきことをしっかりと見つけて行こうと心新たにする私なのであった。
外からはちゃらんぽらんに見えているのんちゃんでしょうが(確実に、おかしな人でしょうねぇ・・・^_^;いやいや・・・否定できないんですけど・・・)、実は、少しは考えています・・・だって親だもの・・・。
親のできること、するべきこと、全部してあげたい、と本気で思います。
まだ小さかった下の息子も含めて、家族全員の心が砕けそうだったほどの、辛い辛いあの時期を思い出しながら・・・・・。