疲れた疲れた、くたびれたよ~~~~~!
なんて、言ってると鬼が笑うかな?
母のリハビリが終わる。
と、言うより、終わらせることにした。
更新しても、次通るかは分からない。
更新できれば、もう3ヶ月伸びるのだけど・・・・。
仕事のシフトのこともあるし、もう、4月からはきちんとしないといけないところまで来た。
不安定なまま、続けることは、仕事をしている人間にとってはかなり大変なことで、周囲に迷惑をかけることになるので・・・。
本来180日で終わるリハビリを、360日・・・倍もこなして、かなりスムーズに動けるようになった母を見るに付け、ほっとする。
下の世話がないというのは、かなり楽な介護と言えるだろう・・・。
お風呂は機械でウイーンと入れてもらえるし、車椅子の操作や四点杖のつきかたも上手くなって、日常の些細なことは困らなくなった。
食事もお箸でできるし、カロリー制限があるとはいえ、普通食・・・・。
当初の目的より随分と、ハイレベルに落ち着いてくれて、本当にほっとする。
リハビリに通わなくなれば、少し時間に余裕もできて、土曜や日曜に、母の顔を見に、施設に行ったり、外出に連れ出したりしてあげることができる。
弟と相談してね。
理解力は確かにかなり衰えてしまった母だけれど、それでもまだまだできることはたくさんあって、楽しみもたくさん・・・・。
余生とでも言うのかな・・・・楽しく暮らして欲しいと思う。
母を看る日々は地獄だ・・・と思ったこともあったけれど、今は、その日々も乗り越えてきたから今があると思う。
介護は決して幸せな時間をくれはしないし、まったくもって、散々な日々だった。
世の中の、介護に携わってる人のほとんどがそうなんだと思う。
でも、そんな日々にも確かに救いはあって、そんな日々の中でも幸せを感じることもできる。
こちらの気の持ちようで・・・・。
ぶっちゃけ、ウンチついたオムツを替えたり、咀嚼途中の口の中のものをべーっと吐き出されたり、床ずれのできた皮膚に薬を塗ったり、鼻くそとったり、耳垢掃除したりが、たとえ親だと言ったって、楽しいわけは決してない。
おまけに、母のためと思っているのに、不満をぶつけてきたり、物が飛んできたり、逆らったりさえするのだから・・・。
大きな子供のようになってしまった母を目前にして、呆然とする自分もまた、そこに確かにいた・・・。
それが、地獄でなくて、なんなのだろうと思う。
無論、介護の度合いにもよるとは思うけれど・・・。
ウチの母の場合は、かなり最初はマックスだった。
実の母とはいえ、憎しみさえ何度も覚えた。
追い詰められ、隔絶され、希望もなければ、そりゃ憎しみも湧きます。
こちらのペースなんてお構いなしで、くったくた・・・・。
本音はイヤイヤ・・仕方なく・・・母に従事する。
でも、重曹のお陰で、そのダメージは最小限ですんだし、アロマの香りは、母と私のギスギスした関係を緩和してくれた。
施設に入れるなんてひどい!なんて事を言う人もさすがに最近はいなくなった・・・。
生活にまつわる嫌なことを、施設が引き受けてくれるお陰で、家族はいつもニコニコで母に会いに行けるし、くたびれることもない。
このところ、いつも母と会うときは笑顔で会える。
母も笑顔。
笑顔でいてくれると、施設のスタッフも扱いよいことは言うまでもなく・・・・。
そんな日々を、あと何年くらい続けていくことができるか分からないけど・・・。
地獄があったから、今ある幸せを感じられるし、守っていこうと思う。
私たち家族と母の幸せはリンクしているから・・・。
母に笑顔を向けられると言うことは、それだけ心に余裕があると言うことだ。
私が私の心の平穏を計らないと、限られた世界で生きなくてはならない母の人生にも影を落とす。
これからも、母に会うときは笑顔でいたい。
母が、私が幼い頃からそうしてくれたように・・・。(やんちゃだったので、怒られることも多かったけどね^_^;)
新しい気持ちで4月です。
また、私の動きが変わります。
穏やかな、母の顔を見ていると、大変だった母の人生も、私の一瞬の介護も、流れの一つでしかなかったのだなあと思う。
ふと生まれる、憎しみや悲しみ、悔しさも、生きてさえいれば流してしまえる時も来るかもしれないんだなあ・・と。
思いもかけない、心の変化に自分自身も驚くことがあるけれど・・・例えば母を憎むと言ったような・・・・でも、そんな心も私自身なんだな。
同時に、愛してもいる母なのだから、ホントに人の心は複雑怪奇だ。
介護は人を疲れさせるけれど、自分と言う未完成なキャラクターを見せつけてもくれます。
納得するか、見ないふりをするかは、モチロン自由だけど、完全ではない、未熟な自分と向き合うとき、私は少しほっとした。
どんなに完璧に見える人でも、内情はこんなもんなのかな、なんて思う。
骨になるまで、人はみんな業をしょっていかなくちゃならない、と言うけれど、本当にそうなのだな。
母のお陰で、素直な自分と向き合えるようになれた。
片意地も張らず、出来ないことは無理、と、誰かに相談できるようになった。
かっこ悪い自分も、結構好きになれた。
そしたら、子供の前でも張り詰めないで、自然に振舞える自分になって、子供も「ママでもできないことってあるんだ~」なんて普通のことを言うようになった。
どこまでも、自分でやろうなんて、そんなこと考えてたら、きっとピリピリ神経がとがって、いい方向には向かなかっただろう・・・。
誰かのお陰で、緩やかに、暮らしていける自分がいる。
ありがとうと言葉をかけたい人が増えた。
いつもすみませんと、謙虚な心持を覚えた。
躓きも、時には必要なのだ。
介護は苦しくて、辛い。
でも、それを、変えていくことはできる。
自分自身の感情とノウハウで。
全ての感情は繋がっていて、苦しみを達成感に、辛さをやる気に・・・そんな風に変えられるのだから。
絶望にだけはリンクしないよう、明日が来ない今日がないように、ずっとマイナス思考では人は生きていけないのだから・・・。
周囲の人の感情にも少し、敏感になった。
同じ立場の人から「お疲れ様」と言われたときの、安堵感はない・・・。
そういう苦労を知らない人から言われると、正直むっとすることもあるけどね、でも、それもまた自分の感情・・・面白いものだ。
同じ言葉を言われても、こうも自分の受け取り方って違うんだな、なんて、いつも第三者の私はこうして自分を見ている・・・。
人の心の動きの妙技を自分自身で試せる機会でもあったわけで、ちょっとした楽しみはこんなところにもあった。
介護、って重いけど、できればしなくて済ませたいものかもしれないけど、もし、しなきゃならなくなっても、なんとかこなせるものではある、と分かった。
それだけで、充分に価値はあった体験だったよね。