子供との距離は、自分と自分の子供時代の距離がどのくらい離れているのかということにも繋がる。
「ぜーんぜん、子供の考えてる事わかんないわ~」
と、話す保護者もいるのだけど、その意見には、同調できない。
なぜって?成長のない私は、自分が子供だった時と、未だしょっちゅうリンクしてシンパシーしている・・・・・。
だから、「子供の考えてる事、考えてなんかあげないもんね」
と、いつも思っている。
兄弟でお手伝いの擦り合いになって、ケンカに発展する時、すでに、そうなりそうな気配はチラとかすめる。
で、「どっちか○○手伝ってよ!」と自分で火種を撒いてしまう。
こういう時は、自分にも体力的か時間的か、或いは精神的にか余裕がないときにやってしまう。
あ、やっちゃった・・・・と、ケンカを始めてぷううっと膨れっ面の子供達の顔を見て、そう思うのだけど、でも、家事は、キミタチのカード遊びやテレビゲームより、必要で、重要度「高」なのだよ!
だから、数々の言い訳を並べ立てても、母は聞いてはあげないのだ。子供側からすれば、楽しいことをやってる最中に、言いつけられ、あれこれ動いたりすることは、そりゃ水を注されるというものだ。
でもね、びっくり水も大切な讃岐のうどんなのだから、讃岐っ子のキミタチは、そんな事で許されると思ったら大間違いなのだよ!
お手伝いはお手伝い、優先課題に沿って、キミタチは動くべき時に動いてもらうのだ!
正直ね、そのキモチ、母にはよーく分かるんだけどね・・・。
でも、甘やかすつもりはないのでご安心を。
以前と比べて、怒る回数はぐんと減り、やるべきお手伝いのスピードはかなり早くなった。
君たちにとって、今はまだ、「不満のタネ」でしかないお手伝いだけど、こうしてちゃんと覚えておけば、君達が守ってあげなくてはならない家族を持った時、きっとその威力を発揮するよ。
それも、本当!
そしてね、君達の労働力なくしては、母の家事は、ごっそり手間隙かかり、スピーディには片付かないのだ。
「ありがとう」或いは「ご苦労様」・・・・その言葉だけは、どんなに兄弟ゲンカ中でも、親子ゲンカ中でも、忘れず伝えてます。
それはね、本当の気持だから。
子供達の中に、私がいる、私の中に、未来の君たちがいる。
30年後くらいに、同じように子供がお手伝いをしないとか、そんなことでもめているかもしれない君たちの未来を想像すると、なんだか可笑しい。
そんな日常がやっぱり楽しい。
些細な幸せは、そこここに転がっていて、拾い切れない。
「ぜーんぜん、子供の考えてる事わかんないわ~」
と、言っている保護者の皆さん、そんなもん、分かんなくても、子供の中に自分の影を探してみよう。
子供の中に必ずいます!小さな自分が。
その時の自分と話しをすれば、解決にはならなくても、なにか、見えるもの、あったりします。
それが、きっと幸せのヒントだったりするんです。
私は最近とても早く通り過ぎる時間に、もっと抱きしめていたいような余韻を感じながら、「待って!」と思いを馳せています。
子供を怒っちゃった後、抱きしめた後、急かしてしまった後、すべての出来事の後に、通り過ぎてしまって、2度と取り戻せない悲しいような、懐かしいような・・・なんとも複雑な気持を持つようになりました。
これが、母親のノスタルジィというものなのかな・・・?
子供時代と今とはリンクしてるけど、でも確実に距離は遠くなってるのだね・・・。
怒ってばかりの母もきつい。
最近、意識してなかった、ニコニコでいるための努力を再度始めよう。
母は、まだまだ子供です・・・。
キミタチほどではないけどね^_^;
(オイオイ、ホントにケンカは止めろって!怪我するぞっ!)