畑のフレッシュなカモミールを一枝摘んでお茶をいれた。
ポットにカップ一杯分余ったのを、
捨てるのももったいないし、と、冷蔵庫に保管し、
数日後、お風呂に入れてみた。
浸かって数十秒後から肌の様子が違う。
お湯をかけたところから、どんどんすべすべになっていく。
なにしろ単なるハーブティーで、
煎じても煮出してもいない。
お湯を注いで蒸らしただけだ。
薄緑のカモミールの色など、
風呂の水全体に薄まって見えないのに、
いつものお湯とは違う植物の力に驚く。
とれたての薬草は、
保存加工の工夫というものを、
ある意味、スパッと凌駕するところがある。
ただやはり生のままでは地理的に限定され、
その力が必要な人々皆に渡しきれないから、
優れた保存加工の技術は福音となる。
でも、この力強さはなんだろう。
生のハーブがドライハーブになるまでに、
どうしても抜け落ちるものがあるのだろうと、
思わざるを得なかった。
光と風、そして清らかな水の力で、
人間にとって害になるものを抜く技術も根は同じ、
言ってみれば生の植物という総体から、
適切な要素の取捨選択を行い、
洗練された“文章”を読みとる能力だ。
確かにそれで意味は伝わるし、人は行間を読んで、
足りない部分を埋めることすらできる生き物だけれど。
言葉を書き記す前の白いノートに、押し花を見つけたような、
二次元情報になる前の、三次元の物体を見つけてしまったような、
土からの、思いがけぬダイレクトメッセージだった。