6月25日(日)ローマン・カモミールのお風呂

畑のフレッシュなカモミールを一枝摘んでお茶をいれた。
ポットにカップ一杯分余ったのを、
捨てるのももったいないし、と、冷蔵庫に保管し、
数日後、お風呂に入れてみた。

浸かって数十秒後から肌の様子が違う。
お湯をかけたところから、どんどんすべすべになっていく。

なにしろ単なるハーブティーで、
煎じても煮出してもいない。
お湯を注いで蒸らしただけだ。
薄緑のカモミールの色など、
風呂の水全体に薄まって見えないのに、
いつものお湯とは違う植物の力に驚く。

とれたての薬草は、
保存加工の工夫というものを、
ある意味、スパッと凌駕するところがある。
ただやはり生のままでは地理的に限定され、
その力が必要な人々皆に渡しきれないから、
優れた保存加工の技術は福音となる。

でも、この力強さはなんだろう。
生のハーブがドライハーブになるまでに、
どうしても抜け落ちるものがあるのだろうと、
思わざるを得なかった。

光と風、そして清らかな水の力で、
人間にとって害になるものを抜く技術も根は同じ、
言ってみれば生の植物という総体から、
適切な要素の取捨選択を行い、
洗練された“文章”を読みとる能力だ。

確かにそれで意味は伝わるし、人は行間を読んで、
足りない部分を埋めることすらできる生き物だけれど。

言葉を書き記す前の白いノートに、押し花を見つけたような、
二次元情報になる前の、三次元の物体を見つけてしまったような、
土からの、思いがけぬダイレクトメッセージだった。