残像記憶

母が歌を歌った。

と、言っても、ほぼ言葉を失っているから、メロデイを訴えたようだけれど。
言語の先生からそれを聞いて、私も聞きたかったな、とちょっぴり残念。

歌に限らず、次々残っている記憶が表面に現れる。
こういう記憶が残っているうちに、リハビリをすると、その記憶は残る確率が高い。
つまり、脳って、他所にコピーできるようなのだ。
そっくり同じかどうかは別にしても、その記憶をコピーするなんて、脳って、やっぱり侮れない。
特に海馬付近の脳は、高齢になっても細胞を作り出すことが出来るということも最近分かってきたと新聞で読んだ。

だから早期リハビリが大切だといわれ、どういう状況でも、回復の可能性はあるということなのだ。

母は、感情もようやく外に出るようになった。
悲しい顔、笑った顔、照れた顔、そんな母の顔をもう一度見られるとは思ってなかっただけに、面食らうと共に、毎日通うのが苦痛ではなく楽しみに変わった。母の記憶は果たしてどの位残っていて、どんな風に組みなおされているのか?
生きている私でさえ、時々記憶違いがあるというのに、脳を破壊された母は、どんな感じになってるのだろう。

でも、それもこれも、前進していくしかなくて、止めてしまいたくなくて、ただただ、母をリハビリに突き動かす。

今までと違う母、ということは頭で分かっていても、今までの感覚が、この違う母をそのまま受け止められない。
私も、リハビリ?エクササイズ?をずっとしている。
ずっと戸惑っている。

でも、看護士さんによれば、わりと私は順応力のあるほうなんだそうだ。
一部、変わってしまった家族をうまく受け入れられなくて、どちらも辛い思いを噛みしめてしまう方たちも決して少なくないのだという・・・。
お互い大切な家族なのに、うまく関係を築けなくなるのは悲しいことだ。
きっと私を元気付けようと看護士さんは話してくれたんだと思う。
少し、気持ちが軽くなりました。
そう、私は元通りの母でなくても受け止める為の準備を一生懸命やればいいのだ。
今はとにかく必死。

歌でもいい、動作でもいい、母が前に進む度、こちらも足並みを揃えなくてはならない。
毎日がスタートラインだ。

母の爪を切りながら、伸びた爪の分だけ、時間が過ぎたことを思う。
今日は足の爪。
動かないほうの足には苦労したけど、なんとかやり遂げた。
母のためにしてあげられることが、ほんの少しだけ増えた。
そんな日だった。